ライ麦畑で叫ばせて

日常/数理/旅や触れた作品の留書/思考の道草 などについて書いています。

ハードルが低い

 

 最近、首肩腰の張りや痛みがひどくて鍼灸治療を受けていることは前にも記した(2023年の目標)。しかし、それだけではままならないので、運動後や就寝前はなるべく時間をつくってストレッチをするようにしている。

 私の中のストレッチや準備体操の基本は小学4年生の頃に形成されたといっていい。野球スポーツ少年団に入り、そこで覚えた一連の体操である。屈伸運動から始まり、腿の裏を伸ばし、前屈、……、最後は手首足首を回して終わり。面白いことに、このセットは、中学の野球部でも、高校のバドミントン部でもほとんどかわらなかった。それぞれの体操の必要性やこの順番である意味など全く考えず、「準備体操とはこういうものだ」と信じきって毎日やっていた。

 最近はYoutubeなんかで「朝の体操」、「寝る前のストレッチ」、「ランニング後のケア」など適当なキーワードで検索すると、10分くらいの動画が無数に出てくる。ここで、「起床後や激しい運動前はじっくりと筋肉を伸ばすようなストレッチはしないこと」や「やっぱり体を動かす順序は重要なこと」などを知る訳だが、先日「むむっ、これはすごいことだぞ!」と遅ればせながらはっとした。

 数年前の東京オリンピックで日本の若い選手たちのメダルラッシュに沸いたとき、「最近はインターネットで簡単に一流選手のプレーや技をみられるようになったのが一因」とワイドショーで説明されていた。そのときは大して疑問にも思わず「ふーん、昔に比べればそうだろうな」と思った程度だったが、まさしくその通りなのだろう。きっと、競技中はおろか、それこそ準備体操や運動後のケア、もっというと朝起きてから寝るまで、食事や睡眠中だって、「本当はこれが正しい」が世界には溢れていて、今はその「正しい」に近いモノを簡単に調べて、真似できる世界なのだ。

 今でこそ一日中PCに向かう仕事をしている私だが、大学の学部生くらいまでは正直なところ機械やネットには疎くて、人一倍「ネットで調べる」ことに慣れるのが遅かった。「正しいバッティングフォーム」や「プロのバドミントンプレイヤーのラリーの組み立て方」なんかを積極的にみるよううな子どもだったら、もう少しうまくなっていたかもしれない。

 運動だけでない。勉強に関しても検索のハードルはかなり低い。就職試験のときには、その分野に詳しい人がアップした授業みたいな動画に大変お世話になった。「学校なんてもういらない」と思う人は、今は昔よりかなり多いのではと思う。

 だが、簡単に調べて「既知の答え(あるいは今のところ答えとされているもの)」が得られる分、昔よりずっとスピード感が求められているとも思う。基本なんて調べてすぐに身につけなければいけない時代だ。教科書にマーカーなんてしていたら、紙の辞書なんてひいていたらもう負けだろうか。ひらがななんて練習していたら、九九なんて暗唱していたら、メモなんてとっていたら、鉛筆なんてけずっていたら。このスピード感は少し恐ろしくも思う。

 ある学校で、「学校に来たくない」と相談された教師が、Google先生か流行りのChatGPTかは忘れたが、生徒の言葉のまま検索してその結果を生徒に向かって読み上げた(この教師はふざけているわけではなく大真面目で、当然こうすべきと思った最善の手段だったらしい)という話をきいて仰天した。調べればほとんどのことが猛スピードでわかってしまう時代だが、奇しくも、反面教師的に、調べるだけでは答えには辿り着かない、人と人の対話・関係の重要性、その小さな社会を形成する教師と学校(万人に対してその社会が学校である必要もないが)の必要性を、この教師は示したように思う。