ライ麦畑で叫ばせて

日常/数理/旅や触れた作品の留書/思考の道草 などについて書いています。

感想44『大河の一滴』

 

70. 五木寛之大河の一滴』(幻冬社文庫)

再読したい度:☆☆☆☆☆

 友人に読むべしと勧められ、同時に感想を書くのは難しいだろうと挑発された一冊。確かに、本筋から派生して話題は多岐にわたるのでまとめるのは容易ではなかったが、読了後の臨場感をそのままに勢いで書いてみた。

 我々は何かをなそうと躍起になり、その過程でひどく嘆いたり、悲しんだりすることが多い。そうして気が沈んで、究極的に「死」という選択肢がずっと近くに歩み寄ってくることもある。しかし、人間の一生とは本来、苦しみの連続なのではあるまいか。マイナス思考の極限まで降りていくことしか、プラス思考の出発点はないのではないか。喜びと悲しみ、陰と陽との間を揺れ動きながら、我々はただ、永遠の時間の中を進んでいるのだ。言うなれば、人はみな大河の一滴である。地上の大河を流れるリズムの一部である我々は、やがて母なる海へと還り(死と捉えよう)、水蒸気となり空へ還り、また地上へ生を受ける。

 人はみな大河の一滴。著者の主張たるこの本流に、医学、音楽、風土、歴史、宗教、さまざまな支流からの考察が流れ込むことで、本書は完成している。その全てが洞察に富んだものだが、ここでは著者の主張にある共通項を見出すことで、本書の内容を整理したい。その共通項とは、「境界をなくす試み」である。

 世の中はときに澄み、ときに濁る。同様に、私たちは善人にも、また悪人にも徹しきれない頼りない存在である。あるいは、人は生きているだけで価値があり、善悪や成功失敗は二の次であるとも言い換えられる。この世の事物はおしなべて、清濁、善悪、良否、両方の側面を持ち合わせており、どちらか一方と決めきれないものだ。著者は、その事実を受け入れて生きよと説いている。いまこの瞬間を流れる大河の一滴一滴をみて、あちらは澄んでいて、こちらは濁っているとはっきり分離できるとは考え難い。良いか悪いか、イチかゼロか、どちらか一方に決め切ろうとする境界を取っ払いなさいと言っている。

 また、自分を愛していない人間は他者を愛すこともできないと著者は言う。自分の命の重さが感じられない人は、他の生物に対してもそうだろうと。「生きているもの」というカテゴリーのなかで、自と他に重みの違いや境界はない。あるいは、生と死。脳死が人間の死と認められていることについて、科学的、生理的な死であることは認めつつ、それが全てではなかろうという、批評的な立場で議論を展開している。「生理的な死」から、残された人々がその死を受け入れるにはそれなりの時間がかかる。命が宿り、地上に生を受けるまで十月十日。だったら死ぬのにも、それくらいの時間がかかるのではあるまいか。記憶の中から、故人を「記憶の死」に送り出すまでの移行期間は、生と死の境界が曖昧模糊となって然るべきではないか。万人に必ず訪れる死は、誰かの生のなかにあり、最早我々は、生死という確かに思われる境界からも解き放たれている。

 医学の専門化が進み、治療において人間を「物質」と捉える見方が強くなってきた。モノを治すなら、こうだろう。科学に基づく知見が医療を進歩させた。だが、「虫歯を予防するには徹底した歯磨きよりも、食事とその前後を楽しむ余裕が大事」、「心の持ち方の変化で、治る見込みのなかった癌が消滅した」などの話題や実例から、健康は物質たる身体だけの問題だけでなく、心の状態も大事であると説いた。一人の人間という単位の中で、魂と体の間に境界などなく、一致したものなのである。

 著者は、最近流行りの自己啓発本のように、何事もポジティブに考えろとは言わない。ポジティブとネガティブの共存が大切なのだと述べている。喜ぶことに対して、悲しむことはマイナスという考え方は違う。悲しむときは本当に悲しむことが大切で、「喜び」と「悲しみ」それぞれの方向の振れ幅が、体と魂、すなわちそれらが一体となった一人間を活性化し、寛容なこころで、求めず、頑張らず、拘らず、それはときに境界なく他者にも伝播し、時間軸を超越し、我々は綿々たる大河のリズムに身を任せることができる。