ライ麦畑で叫ばせて

日常/数理/旅や触れた作品の留書/思考の道草 などについて書いています。

感想48『木の一族』・『預言者の名前』

 

77. 佐伯一麦『木の一族』(新潮文庫

再読したい度:☆☆☆★★

 前回紹介『ア・ルース・ボーイ』に続けて読んだ。続編とは銘打っていないが、主人公の男の性格、周りの人間や環境、回想、どれをとっても「続編」以外の何物でもなく、著者が「私小説」の書き手であることを知れば、彼自身の人生の「続編」であるという解釈が可能となる。

 この二冊は、「私小説」について考えるきっかけを与えてくれた。「私小説」は「わたくししょうせつ」と読む、というのは「私は小説である」という考えに基づいているらしい。私小説はなにも珍しいものではなく、特に近代では夏目漱石川端康成三島由紀夫太宰治も、ここに挙げきれない多くの作家が残しているし、私自身、読んだ私小説は一冊や二冊では済まない。

 では、本作の何が心を打ったのか。私は、本作で初めて、小説の中の人の声、小説にされる側の叫びを聞いた気がした。主人公(著者自身だが、ここではあえてこう呼ぼう)の妻が、「これ以上、私のことを小説に書くのはよしてください」と言う。これ以上、これまでの恋愛遍歴や、性癖や、子どもの障がいのことを世間様に晒されるのは御免だと。「わたくしは小説でない」と。だが著者は、妻のその「訴え」さえ小説にする。その生々しさが、たまらなく響いた。

 

78. 島田雅彦預言者の名前』(新潮文庫

再読したい度:☆☆★★★

 今まで読んだことのないタイプの小説で、感想を述べるのが難しい。今までで一番悩んだかもしれない。

 はじまりの一、二章では、それぞれの世界宗教を熱心に信仰する人たちが、ある一人の男(生身の人間である)との出会いをきっかけに、男の「信者」となるエピソードが描かれる。ここについては、大学の一般教養で「宗教学」の授業をとっていてよかった。これは回心──心を神に向けること。理屈を抜きにして、ある瞬間からその対象を信仰することが当然となるような心のうごき──のひとつであると解釈できたからだ。

 章が進むと、今度は、出会った人たちから信仰の対象とされるその男の生い立ち、そして、その彼がみた「神」の話へと展開していく。その「神」とは実在の人物なのか、それとも超自然的な存在なのか。あるいは、男はその「神」と出会ったのか、それとも精神異常により生み出された妄想なのか。そういった疑問が浮かび上がり、解釈が難しくなってくる。信仰という力の強大さ、それと隣り合わせにある危うさを小説として描くことに成功した、不思議な作品であったと思う。