ライ麦畑で叫ばせて

日常/数理/旅や触れた作品の留書/思考の道草 などについて書いています。

知らぬが仏

 

『老婆心』に『知らぬが仏』と、どうも説教臭い話題が続くが、鬱陶しがらずにお付き合いいただきたい。あと、ここでの「知らぬが仏」は原意とは少し異なることを断っておく。

 階段を駆け降りるという行為は、私の生活圏ではほとんど毎日の動作といっていい。当然、特に意識などする必要のない動作だが、先日、ふと足元を見た途端、右足、次は左足、と思考してしまって、すればするほど身体の動かし方がわからなくなり、とても焦った。

 一段一段、段差の位置を知りながら降りるということは、段差を踏み外してしまうかも、という最悪の事態を想像させ、その恐怖が身体のうごきを鈍らせる。階段なんて(段差の高さが途中で変わったりしない限り)始まりと終わりさえわかっていれば、意識などしない方がいい。

 先日、人生ではじめてボルダリングを体験した。9級から初めて、6級まではクリアできた。調べてみると、5級をクリアできると「脱ボルダリングビギナー」らしく、私はしっかりビギナー圏内でストップした。友人は5級も何度かクリアできていたようだ。まあ、個人的には初挑戦にしては上出来であったと思う。

 しかしこれも、自分の今いる高さ、指や腕の疲れ、つりそうな尻の筋肉、等々を意識してしまった瞬間の恐怖ったらなかった。体験前にみせられたレクチャー動画には、無理をして落ちてしまういわゆる「失敗例」の映像はたくさんあったが、失敗してしまいそうになったときのリカバリー方法や受け身の取り方はいまいち説明されず、恐怖だけを植え付けられたような気がした。もちろん、怖さを知らないよりはいいのだが。

 最近の風船は、100円ショップで購入したものでもかなり頑丈だ。そのせいで、2歳になる息子は、風船が破裂することを知らない。だからパンパンに膨らんだ風船に平気で噛み付き、爪を立て、踏んづけて、やりたい放題なのだ。恐れを知らないことが、これほど恐ろしいことだとは。

 友人が「人生の底がみえた」、「日常が固定された」と嘆いていた。道が定まって、あるいは行動や思考の枠がわかって、安心が生まれる側面も当然大きいが、「わかってしまった」閉塞感や絶望感の類が拭い切れないという彼の言い分が、私にはよく理解できる。「知ることは想像の邪魔をする」と恩師がよくいっていた。だから、研究をずっとやってきた我々教員より、研究ビギナーの学生さんたちのほうが発想力があって然るべきなのだ、と。知ってしまうと、自由が足りない。スリルが足りない。シゲキが足りない。ムダがたりない。ロマンが足りない。

 ボディソープやシャンプーなんかの原液に水が入ると菌が繁殖しやすいので、水で薄めて使ってはいけないなんてこと、子供のときは全く知らなかった。先日、風呂掃除の途中、ノズルを外し、ボトルとの隙間についた汚れを落とし、ノズルを刺したものの閉め忘れ、ボトルを倒し、それに気づかずシャワーをそちらに向け、ああ、ひょっとしたら水が入ってしまったかも、と嘆く。一日中、後悔に苛まれる。知ってしまったがための、菌繁殖への恐怖。知よ、これ以上私を苦しめないでくれ。