ライ麦畑で叫ばせて

日常/数理/旅や触れた作品の留書/思考の道草 などについて書いています。

老婆のこころ

 

ろうば-しん【老婆心】

年とった女の親切心がすぎて不必要なまでに世話を焼くこと。必要以上な親切心。主として自分の忠告などをへりくだっていう語。「―ながら申し上げる」

──広辞苑より

 

「よかれと思って」と考えることが多々ある。友人の言うところの(彼のブログのタイトルでもある)「よかれと思って大惨事」であり、それが自らの行いを省みたならば「老婆心」、他人の行いを非難するならば「余計なお世話」である。

 最近、会社近くの横断歩道の手前で、必ず立ち止まって車を先に行かせるオバサンがいる。初めて彼女を目撃したとき、彼女は私の10メートルほど前方で立ち止まり、直後には彼女につられてスーツ姿のサラリーマンが止まり、学生らしい自転車の女性が止まり、そして彼ら倣って私も止まった。

 車が一台行き、二台行っても一向にオバサンは渡ろうとしない。横断歩道は、大学病院の駐車場へと続く道を渡るところにある。特に朝は、診察へ向かう人と通勤する人とで駐輪場へ入る車が多いのだ。しかも、車は、大通りから左へハンドルを切り、歩道と車道の境界の低いブロックに乗り上げて、その横断歩道を横切ってから駐輪場へ入る格好だ。巻き込み事故を避ける意味でも、必ず車は一時停止し、速度を落として走行するような場所なのだ。列をなす車が全て過ぎ去るのを律儀に待っていたら、日が暮れてしまうだろう。

 私は、三台目が一時停止し、歩行を促したように見えたところで、足早に横断歩道を渡った。少しして、自転車の女性に追い越されたタイミングで後ろを振り向くと、サラリーマンは私の斜め後方を歩き、オバサンは、まだ立ち止まったままだった。

 それ以来、そのオバサンとはほとんど毎日遭遇するが、彼女が立ち止まり、つられて誰かが立ち止まったのを見ても、私は車が一時停止したのを確認したら渡ることにしている。朝だし、急いでいるから、という理由だけではない。そのオバサンは親切心で立ち止まっているかもしれないが、車を運転する立場からしたら、完全に歩行者優先の状況であるし、さっさと渡ってくれた方が気楽に違いないのだ。少なくとも、私が運転手だったらそう思う。

 あと、多くの人が降りようとする電車内で、他の人に降車を譲るあまり、その人自身が道を塞ぐ格好になり、よどみを生む者がいる。「お前が降りれば万事解決だぞ」と、そんな奴の気遣いには辟易とし、ため息が出てしまう。

 ここまで他人を追及してきたが、自分の「老婆心」を省みることも多々ある。会社でも家庭でも、よかれと思ってかけた言葉が相手の癇に障るらしく、あるいは相手を思って買ってきたものが別にいらないらしい、などと言うことは日常茶飯事だ。思い返せば、祖母もお節介を焼く人だった。「祖母ちゃん子」だったこともあってか、その辺りは彼女に似たような気がしてならない。

 そういえば、何故このような余計なお世話を老婆心というのだろう。老婆の対義語は老翁らしいが、老翁はお節介は焼かないのだろうか。奇しくも、横断歩道の前で立ち止まり続けるのも、車内で降車を譲るのも、お節介な祖母も老いた女性ではある。老翁心と調べてみたが、そのような言葉はないらしい。そして、老婆心とは仏語のようだ。差別だの何だのという次元ではなくて、太古から、男性は狩りやら仕事やらに出る一方、女性はコミュニティを築いて集落や家族を守るのが一般的だった。女性のDNAに組み込まれたその社交性が、歳を重ね、過剰となるとき、老婆のこころが生まれるのかもしれない。そういえば、老いた翁の中には、必要以上に殺気だって、孤独な戦いへと自ら突っ走っていくような人たちが散見される。