ライ麦畑で叫ばせて

日常/数理/旅や触れた作品の留書/思考の道草 などについて書いています。

感想40『斜陽』

 

64. 太宰治『斜陽』(新潮文庫

再読したい度:☆☆☆☆☆

 一言、圧巻である。本作は、貴族に生まれた女とその家族の破滅を描く物語だ。斜陽、すなわち沈みゆく太陽。まさに表題の通りである。夕暮れ前、物語の始まりはあまりにのどかで、明るく、上品だ。その印象を担うのは少女の母親に他ならず、「陰」と「陽」という考え方をすれば彼女は作中唯一の「陽」といって良いように思う。作中において「日本で最後の貴婦人」と形容された通り、彼女に関する描写、所作、言動からは、作り物でない美しさが熱をもって伝わってくるようだった。

 そこから一家は、衰退の一途を辿ることとなる。その没落の詳細は是非作品を読んで味わって欲しいが、つまるところ、この作品は「日没」に真っ直ぐ向かっている。だが、細かくみていくと、実は章によって味わいがかなり異なる。全8章の中には手紙、あるいは遺書の内容だけで構成された章もあり、これらは作中でも異様なインパクトを残すものとなっている。

 この作品には、著者の「死生観」が凝縮されているように思う。その一つには、死による「解放」あるいは「完成」があると考えられる。だからこそ、もし本当に死が解放や完成といった「美しき終着」だとするならば、果たして彼女達の物語は悲劇だったのだろうかという疑問が生じる。作中においても、彼らの転機たる一瞬を、ある人は「黄昏」と形容し、またある人は「朝」と表現した。明けない夜はないなどと陳腐なことをいうつもりはないが、彼女達の中に僅かに見えた光が、たった一行隣の文では絶望と変わってしまっていたように、「陰」と「陽」どちらともいえない(あるいはどちらともみえてしまう)ものこそが「斜陽」であり、この物語であり、この世の全てなのではないか。

 実は、本作を読むのは二度目である。一度目は、こんな考察をすることはできなかった。ようやっと、本作を少しは味わえる人になったようだ。そんな感慨と、友人と行った斜陽館の思い出などを肴に、今夜は一杯やろうと思う。ギロチン、ギロチン、シュルシュルシュ──。