ライ麦畑で叫ばせて

日常/数理/旅や触れた作品の留書/思考の道草 などについて書いています。

教師よ、後ろ向きであれ

 

 友人と本屋に立ち寄った折、「人間は自己肯定感が10割」と書かれた帯を見つけて笑った。肯定感の「こ」の字も知らない我々は、「人でなし」の烙印を押されたことになる。この先は、畜生という自覚をもってひっそりと生きてゆこうと思った。

 さて、それぞれの専門性を持ち寄って仕事を進める特性上、自分の得意とする分野に明るくない人たちと議論することがしばしばある。すると、全てではなくとも、必要最低限の知識は理解してもらわねば議論が先に進まないという事態が発生する。そんなときは、一から十までは話さずとも(そんな時間も必要性もないことがほとんどだ)、あるところは誤魔化しながら、相手の理解度を推し量りつつ、説明をする。その説明が「わかりやすい」と褒められると素直に嬉しい。同時に、「何故そんなにうまいのか」と問われると、はて、と頭を悩ませる。

「元々は教師を目指しており、教員免許をとるための単位も一通り取得して知識があるから」、「学生時代は塾講師をしており、教えることに慣れているから」、「三兄弟の長男で、相手のレベルに合わせて話すことをずっとしてきたから」など、バックグラウンドに理由を求めれば、それっぽいものはいくつか出てくる。だが、最も根本的な理由は、「ネガティブ思考だから」ではないかと思う。一度した間違いはなかなか忘れることができず、「もしかしたら今も間違えているのでは」という疑念に常に駆られている。そんな後ろ向きな性格が、実は「教える」という行為に適しているのではなかろうか。

 勉強で「わからない」と焦った記憶で最も古い記憶が二つある。一つは、「直角」だ。算数は角度の単元で、先生がいろいろと角度の特徴を説明しているときに、隣の人から「ここの問題教えて」とドリルをみせられた。思えば当時から教えることは嫌いでなく、素直に解き方を教えつつ、一方で先生の説明をちゃんと聞きたいのにな、と少し不満に思ったことを鮮明に覚えている。そして、案の定、直角がなんたるかという説明を聞き逃したのだ。問題を解く時間になり、皆が教科書に三角定規を当てて「直角」を探している間、何が何だかわからず、私は発狂しかけた。直角がわからない──説明を聞き逃せばそんなこともあり得る。もう一つは、「石けん」。せっけん(石鹸)と読むのだが、ふわふわとした泡の印象と、「石」という字面が繋がらず、「石の剣か何かか?」と混乱したことを覚えている。これも算数の時間だった。「石けんが5つあります。そのうち〜」、まてまて、イシケンとはなんぞや、と。

 負の感情の方が記憶に残りやすいと聞くが、これらの「わからない」はまさにそれだろう。だが、そんな大昔から重ねてきた無数の「間違い」、「つまずきどころ」をどれだけ覚えていて、一般化できるかが、実は重要なのではないか。教えられる側の「わからない」を理解して、寄り添うことに繋がるのではないか。

 そして、「現在も間違っているのでは?」という自問自答は、考えを繰り返し咀嚼することに役立っていると思う。過去の自分はどうやってこれを理解し、解釈したのか。思い出し、思考を繰り返すほど、「自分の脳みそ」を相手にしたわかりやすい説明を再構築することになる。そして、ひとたび説明の相手を他人に替えれば、対自分である程度洗練された説明が、既に出来上がっているというからくりだ。

 冒頭で述べたように、昨今は「自己肯定感」がものすごく重視されている。子どもを育てる上でも、二言目には自己肯定感を育むべし、といわれる。自己肯定感とは「欠点を含めて自分を受け入れる力」なのだそうだ。私は、過去の失敗を肯定的に受けとめることができてはいないが、「説明する」という目的に対して、失敗を一つのカタチで活用できていることを考えれば、その点は肯定的に捉えても良いかもしれない。

 失敗を省みない(あるいは賢過ぎて本当に失敗しない)人間が教師であったら、果たして子ども達の失敗に寄り添い、正しい道を示すことはできるのだろうか。あるいは、「間違いを受け入れる」が先に立ち、間違いを正さない、誤った肯定の仕方をしてしまう教師は生まれないだろうか。そこを履き違えると、「自分はこれでいい」と思うばかりの、「話が通じないモンスター」がはびこりそうで怖い。そうなってしまうよりは、ひたすらに後ろ向きの、肯定を知らない「人でなしの畜生」でいるのがいい。そう思うのは、私だけだろうか。