ライ麦畑で叫ばせて

日常/数理/旅や触れた作品の留書/思考の道草 などについて書いています。

感想26『老人と海』・『晩夏─少年短篇集』

 

43.(著)ヘミングウェイ・(訳)福田恆存老人と海』(新潮文庫

再読したい度:☆☆★★★

 再読シリーズだが一度目の記憶はほぼなし。漁師生活最後の栄冠たる巨大魚の捕獲に執着した老人の、巨大魚、ひいては海という大自然を通した、老人自身との対話である。

 登場人物は老人と彼を慕う少年くらいのもので、しかも大半は老人が大海原でひとり巨大魚と格闘する場面で進んでいく。それでいて場を持たせられているのは、老人の「独り言」である。「最近、独り言が多くなった」という序盤の独白によって、独り言と情景描写のみよって場面を展開することを可能にしたのだ。昔ながらの手法なのか知れないが、私にとってはかえって斬新に思えた。

 印象深い「独り言」は、「海」は女性名詞か否か、という問いである。近頃の若い漁師は、「海」を女性と思っちゃいない。俺は女性を愛するように「海」を愛している。そんな流れだった。名詞を男女に区別するのは日本にはない文化なので、独特で面白い。だが、日本でも「母なる海」というくらいだから、女性というのがしっくりくるだろうか。

 また、個人的な見解を述べるとすれば、情景描写が的確でいて、美しい。だだっ広い海にぷかりと浮かぶ老人。見渡す限り海という状況が織りなす、生物や自然の力強さ、多様性に包容力。これらは、私のように海に出たことがある人ならば、なおのこと楽しめるだろう。

 あとは、解説が興味深かった。当時、歴史の浅さを背景に、アメリカ文学はヨーロッパのそれに対してずっと遅れをとっていた。端的に言うなら、ヨーロッパ国民を国民たらしめたのは歴史だが、アメリカにおいては未来であり、また、ヨーロッパで個人を形成するのは過去という時間だが、アメリカでは今ここにある空間だった。したがって、当時のアメリカ文学には、登場人物がいかにしてそのような思考・判断をくだし言動するに至ったのか、それを支える過去が描かれることがなかった。そんな中、ヘミングウェイは、アメリカ文学に「時間」という概念を採用した走りの作家だった。聞けばなるほど、少し特殊ではあるが、海を通した自分自身との対話によって、老人の「歴史」をこれでもかと言うほど掘り下げた作品が、この『老人と海』に他ならないように思う。

 

44.井上靖『晩夏─少年短篇集』(中公文庫)

再読したい度:☆☆☆☆★

 こちらは図書館で借りた本。「少年時代を描いた」というテーマで集められた短篇集だ。くすりと笑えるユーモア、主人公(そのまま少年時代の著者といって間違いないだろう)の言い知れぬ劣等感とそれに対する怒り、そこはかとない哀愁。それらが絶妙なバランスで組み込まれた作品の数々を味わうことができる。どの話も、著者の思想を主張しすぎることなく、すっきりとしているため、なめらかに読み進めることができる。

 作品の多くは、大人となった主人公が少年時代を回想するという形式をとっており、これがうまく機能している。少年時代の経験とそれに伴う複雑な感情が、言葉を知った大人だからこそ違和感なく言い表わすことができる。巧妙さや的確さが不自然でない土台をうまく作り上げているのだ。

「ユーモア」を一つ挙げるなら、少年は「襲撃」しがちなことである。見かけない大人が集落に入ってくると、子供たちは徒党を組んで、偵察部隊は木に登り、攻撃部隊は石を集めて待ち構える。そして、タイミングを見計らい、全員で石を投げて襲撃する。面白いのは、少年たちも何故襲撃する必要があるのか、わかっていないことである。襲撃はなかったと思うが、私も少年時代、何とはなしに自転車で同じ場所をぐるぐると走り回ったり、友達と追いかけあったりしたことを思い出す。飽くなき好奇心と底しれぬ行動力は少年の特権なのだろう。

 また、劣等感、怒り、哀愁の根底に触れるとすれば、それは著者の、物心つく前から祖父の妾であった「おばあちゃん」に預けられて育った過去にあるだろう。そのことには複数の作品で触れているが、淡々と感情を抑えるように、正確な記述に専念する姿勢は一切崩していない。だが、要所要所で、機微な心の動きを巧みに描き出す表現力があるからこそ、さっぱりした中にも深い味わいがあり、暗く負の感情が渦巻くだけの作品にならないのである。

 ユーモアと哀愁のバランスが絶妙という意味では、全部で十五ある短篇のなかで、『馬とばし』が一番気に入っている。そこで描かれる、年に一度の馬とばし(競馬のようなもの)を観覧する村人達のかつての活気と高揚、そして、思い出の一部分の美化と肥大に気づいてしまう大人の主人公の哀愁が、なんとも言えない複雑な味わいなのだ。