ライ麦畑で叫ばせて

日常/数理/旅や触れた作品の留書/思考の道草 などについて書いています。

知識という型(かた)

 

 もうすぐ2歳半になる息子とのあいだに、いつの間にやら会話らしい会話が成立している。「今日なにして遊んだの?」と問えば「公園いったよ。○○ちゃんが鬼したの」と答え、「水たまりは入っちゃだめだよ」と声をかければ「長靴じゃないからだめだね」と返す。最近は「もう寝る時間だから携帯いじっちゃだめだよ」と私が注意される始末だ。

 彼の思考はかなり論理的である。いいぞ、もっとやれ、と思う。理論こそが正義で、暴力は悪だ。昔から、非力で悪知恵のはたらく私は、そう信じて疑わずに生きてきた。

 最近、彼の手や顔には生傷が絶えない。保育園の友達に引っ掻かれたり噛まれたりするからである。そういう年頃であるから、その傷自体に文句をいうつもりは全くない。そんなことより、傷つけられる理由が好きだ。それは彼の思考や言動が達者であるせいらしく、「(時計の)長い針が5になったから、もうお片付けだよ。もう遊んじゃだめだよ」などと、さながら保育者のように場を仕切ろうとするものだから、言語化が追いつかない友達に、手痛い制裁をくらうのだという。それでも「叩かれたりしても口で『やめて』と主張すること」という言いつけを素直に守り、ほとんどやりかえすことはない。良くも悪くも、理屈っぽいのが継承されている。最高だ。法治国家に適している。

 とはいってもまだ2歳児だ。味覚はお子ちゃまである。彼は、果物が好きだ。旬ということもあり、最近はいちごをしばしば購入する。スーパーに入ってまず最初にあるのが果物コーナーというあたり、先方の巧妙な手口である。息子は「いちごがいい」、「ぶどうたべたい」、「みかん!」と口々に果物を要求してくる。先日、そんな息子が「桃は?」と訊いてきたことがあった。私と妻は口をそろえて「この時期は採れないんじゃないかな」と答えた。何気ない、我々にしたら当たり前の答えだった。だが、これに対する彼の返しがよかった。

「でもうんとこしょしたらとれるんじゃないの?」

 私はこの発言に、感心して震え、膝から崩れ落ちて笑った。こればっかりは降参である。

 彼にはまず「旬」という概念がない。一方、『おおきなかぶ』は知っている。そして、桃が『おおきなかぶ』のように力で引っこ抜くタイプの代物ではなく、木に実がなるということは知らない。「採れない」という言葉が「存在はしているが手に入れることが困難である」と、「そもそも存在していないから入手が不可能」の二通りを表現しうることを理解していない。だからこそ、この発想が可能なのだ。この文章を書きながらも、想像してにやけてしまう。何かしらの事情で入手困難な「おおきな桃」に老若男女や獣たちが群がって「うんとこしょ」と引っ張っている絵を。

「最近サンマが獲れなくてね(水温変化で、サンマの分布域が変わっているから)」「でもうんとこしょしたらとれるんじゃないの?」

「最近じゃ都会で蛍は捕れないよ(環境が変わったから)」「でもうんとこしょしたらとれるんじゃないの?」

「今年は米が全然取れなかった(大型台風の影響で)」「でもうんとこ(略)」

 型にはまることが成長の近道だと聞いたことがある。歩行、因果関係、運動、四則演算、文型、物理法則、──。まずは基本を身につけなさいということだろう。応用力は、その型を完璧にしてから得ればよいと。だが、知識に圧迫され凝り固まって、一度型にはまってしまったあとでは、とてもできないような発想がある。彼と論理的な会話ができるようになるのも嬉しいが、エキセントリックな返しが聞けるこの瞬間が、もう少し長く続いて欲しいという願いが、確かに存在している。