ライ麦畑で叫ばせて

日常/数理/旅や触れた作品の留書/思考の道草 などについて書いています。

海も会話も

 

先日、監事との意見交換会なるものに出席した。各部から若手を集めて、ざっくばらんに所属組織の現状について意見を聞きたいというのである。何も意見がないのも忍びないと、最近の困りごと、課題、改善して欲しいことなどを記したメモをもって席についた。

 集められたのは十数人の若手。顔見知りは、数人。監事側の簡単な自己紹介の後、「テーマは特に設けません。なにかご意見があれば」という自由度100の掛け声で意見交換が開始した。こんなとき、一番はじめに手を挙げるほどの積極性はなく、まずは様子を窺う。

 初めの意見は、組織全体の目標や方針に関する疑問だった。なかなか大きなテーマである。ざっくばらんな会といっても、会話の流れというのはあって(少なくとも私は意識する)、これほど漠とした意見を準備していなかった私は、発言者の意見を聴きながら、いくつかの出方を模索する。一つ、別の人が話を展開させるのを待つ。私が乗りやすい流れになるまでさらに様子見である。一つ、音頭をとる監事が「別の意見でも」と舵を切るのを待つ。だれもこの流れに乗れないという最も消極的なパターンである。一つ、自分の意見をねじ込めるキーワードを探す。少し具体的な話にもっていけそうなワードを拾う。割り込むにはタイミングの読みが重要だ。

 しかし、次の展開は、どの想定にもあてはまらなかった。顔見知りの研究者が、組織の話が終わりきらない中、「あの、私もいいですか」と手を挙げて、全く別の話をし始めた。「発注から納品までが遅い。数百円の文具とかはすぐ欲しい」という。ぐっとスケールが小さくなった。そして、私が意見しようとしていた内容からも遠くなった。そんなに欲しいなら百均か何処かで買ってこい、という感想は引っ込めるとしても、これはまずい、と思った。これだけ流れを無視されると、収拾がつかない可能性がある。

 流れからのちょっとのズレ、逸脱を否定する気はない。脱線する話が盛り上がるのは好物だし、そこから新たな視点や考え方が生まれ、面白い展開や奇抜な発想を学ぶこともある。海流も同じだ、と思ったりもする。平均流だけ見ていても、つまらない。そこからの逸脱、擾乱が興味深い現象を引き起こすのだ。海も会話も、全体の流れと、そこからの少しのズレが大事といえる。

 しかし、ズレ過ぎたらどうだろう。会話であったらついていけないし、海洋だったら何だその理論は? と飛躍にあっけらかんとする。みんなが好き勝手やったら、一体感がうまれない。海流システムとして機能しない。理解できない。「カオス」である。

 結局のところ、出席者は流れを読む人たちがほとんどであったため、多少流れを乱す人がいても軌道修正され、全体として悪くなかった。私はといえば、準備していった半分も発言できなかったが、優先順位の高い意見は挙げられたので、よかったと思う。さて、この会で一度も発言をせず俯きっぱなしだったのが一人と、終盤、飽きたのかレジュメで紙飛行機を作り始めた愚か者が一人。こいつらは論外。みんなで波に乗っているところ、山登りをしているような輩だ。

f:id:daikio9o2:20240128182720j:image