ライ麦畑で叫ばせて

日常/数理/旅や触れた作品の留書/思考の道草 などについて書いています。

責任者出てこい

 

 論文掲載にいたるまでに、査読というプロセスがある。投稿された論文が、雑誌掲載に相応しいか否かを判断する作業である。自分が論文を投稿する際には避けては通れない過酷な道であるし、反対に、自分自身が他の研究者の論文を査読する(=障壁となる)こともある。仕事の進捗的に、査読を受けるよりも、査読をする立場になることの方が最近は多い。科学的信頼性の担保、その一端を担うわけである。

 私は海の研究をしている。研究内容についての説明は長くなるので割愛するが、フィールドは日本近海〜北西太平洋だ。黒潮親潮などが流れているあたり、といえば絵が浮かぶ人もあろう。さて、あなたが描いたそのイメージは正しいだろうか? というところから話したい。

 上に、黒潮親潮の概念図を示した。黒潮は、鹿児島県南の海峡を抜けたのちは九州東岸を北上し、日本南岸を北東に流れる。この流路もバタバタと変動するのだが、ここでは詳しく触れない。房総半島沖を通過したのちは岸を離れ、東向きの流れとなる。この流れは黒潮続流(くろしおぞくりゅう)と呼ばれる。一方、親潮は、千島列島に沿って南下し、日本の東にまで到達した後、北海道〜三陸沖で東へ向かう。ちなみに、黒潮は栄養に乏しく植物プランクトンが少ないため青黒い色をしていることから、親潮は栄養豊富で多くの魚を育む親となることから、それぞれ名前がついている(親潮の色は緑っぽい)。黒潮親潮の間の領域は、これらの水が混ざり合った領域ということで、「混合水域」などと呼ばれる。

 このイメージができる人は何人いるだろう。高校時代の地図帳の「気候と海流」のページをみると(簡単に海域の緯度経度を知るために、いまでも会社のデスクにある)、黒潮は房総半島沖を越えた後も北へ向かい、親潮は道東沖からそのまま南へ流れ、常磐沖あたりでお互いがぶち当たっている。車なら大事故だし、海流なら力学どうなっちゃってんだろう、という感じである。さすがに、この誤った「正面衝突」のイメージをもったまま論文を投稿してくる人はいないし、大学生であっても海洋学をかじった人なら払拭できているはずだ。

 このあたりにまつわる、学生時代の苦い経験を、今でも思い出すことがある。もちろん、「正面衝突」ほど大それた間違いではないのだが──。黒潮親潮は、大きくみるとそれぞれ亜熱帯循環、亜寒帯循環という循環の一部であって、お互いがぶち当たったり、一方がもう一方を横切って流れることは考えられない。だが、循環に乗る流れでなく、小さな渦やジェットのようなシャープな流れに乗って、親潮系の水が、比較的新しいまま、黒潮の南で観察されることがある(深度などの情報は割愛する)。そのような特異的な水の観測事例を記述した論文を見つけて、研究室のセミナーで紹介したことがあった。その説明が、おそらくまずかった。言葉足らずだったかもしれないし、そもそも、当時の私の理解が間違っていたかもしれない。だが、指導教員は、私の解釈を追及することなく、「こんな話が論文になるなんて、査読の質が落ちている」と言い放った。「査読が正しく行われていない証拠だ」と。

 これは、セミナーでの私の説明が正しいという前提に基づいた見解だ。「査読者が掲載にふさわしいと判断した論文が、おかしなことをいっている」という批判だ。今になって思う。指導教員は、私の理解、発表を信頼していたわけではないのだ。科学とはこういうものだ、と教えてくれていたのだ。論文として成果が世間に出ることの責任と、それを読んで、他人の前で紹介することの責任を。

 査読をしながら、今でもときどき思う。私はこの研究の科学的信頼性を担保する立場にあるのか、と。もちろん、そうでなければならないと自戒して、努力もしている。一方で、諦観もある。世の中はわからないことだらけだ。各地で信じられない豪雨が降れば、12月に半袖でいられる日もある。黒潮も、実は上に示したようなおとなしい状況がいつも続いているわけではない。今まさに、大きな変動の只中にある。地球の責任者出てこい! と心の中で叫びながら、自らも責任者の端くれであるべく、今日も悪戦苦闘している。