ライ麦畑で叫ばせて

日常/数理/旅や触れた作品の留書/思考の道草 などについて書いています。

洋上の戯言

 

 朝焼けの雲が黒いのは、夜の闇を吸い取ったからだと思う。

 雷雲が黒いのも、何かの闇を吸ったからで、それは少しの光も残さぬよう、稲光を激しく放出しながら去ってゆく。

 

 闇はあっさりと上空を流れゆき、快晴。

 トビウオ。彼らの飛行距離の長さには驚かされる。

 そして、どうしてか、彼らは船の進行方向と同じ向きに、船と並行して飛んでいく。巨大な船体を仲間と思う寛容さと強心臓がゆえだとするならば、私は生まれ変わったら、トビウオになりたいと思う。

 太宰治は名詞を喜劇と悲劇に分ける遊びをしていたが、こいつは光か闇かと問われれば、光だ。

 

 虹の多い航海だった。

 南北に筋状に連なった雲に沿っての調査だったからだろう。ゆえに、一時的な雷雨も伴った。

 だが、風は強くない。東西を台風に挟まれた奇跡の安全地帯には、いつも虹がみえていた。

 

 夜空の星は、闇に散りばめられた無数の特異点にみえる。

 ”問十二夜空の青を微分せよ街の明りは無視してもよい”

 という短歌が忘れられないのだが、無数の星も、厄介な特異点となって、夜空の微積分計算を煩雑にするに違いない。

 星座に詳しくない私は、数ある星のなかから、オリオンの輝きしか見つけ出してやれない。私にとっては、彼の輝きだけが、認められる光だ。

 

 ときどき目にする漂流ゴミは、正直、闇以外の何者でもない。陸上でみるゴミにも増して、それは美しさを穢すものとして、はっきりと目に留まる。

 漂流物は陸に近づくにつれて多くなる。陸を恋しく思うとき、あるいは光となるだろうか。

 

 採水ボトルから出てくる海水は、群青色の水塊から切り離されて、全くの無色透明である。自らを美しきコバルトブルーに見せようとする欲望から解き放たれたといっていい。それは、海面でも、深さ2000メートルでも同じことだ。

 一方、水温のコントラストは明瞭だ。海面は摂氏30度近く、2000メートル深では2度を下回る。

 そして、一様に、舐めるとしょっぱい。本当は、深さによって塩分の濃淡はあるのだが、それを舌で識別できる人間を私は知らない。

 

 デッキのモップが逆立ちしている。少し灰色がかった房糸の部分が軟風になびいていて、どうしてか、少しも汚らしくない。モップは闇を取り除いてくれる光なのだとはっとする。

 

 これらは全て、デッキを散歩中の、ある調査員の戯言である。

 この馬鹿げた思考の一部は、こうして駄文となってWebページを穢す前に抜け落ち、これまたデッキ上の空気を穢す二酸化炭素となって、思考の主にすらすっかり忘れ去られる。

 自然の浄化機能の偉大さを実感し、同時に、それを過大評価すべからずという、熱をもった地球の悲鳴をきく。

 

f:id:daikio9o2:20230901161117j:image