ライ麦畑で叫ばせて

日常/数理/旅や触れた作品の留書/思考の道草 などについて書いています。

感想45『風の中のマリア』・『飽きる力』

 

71. 百田尚樹『風の中のマリア』(講談社文庫)

再読したい度:☆☆☆★★

 オオスズメバチの働き蜂が主人公の、異色の物語。今回は珍しく、蜂の世界の話であるという前提条件は知った上で購入した。オオスズメバチに関する知識不足も手伝って、初めは世界観に入り込みにくかったが、詳しい描写や学術的説明が要所で登場するので、すぐに慣れる。

 学術的説明と述べたが、本作はまさに、今までに出会ったことがないタイプの小説だった。半分小説で、半分科学読み物なのだ。創作的であって学術的。蜂が主役なのだがら、想像の世界ではあるが、完全なファンタジーではなく、むしろドキュメンタリーではと思えてくる。巻末の参考文献にあたった訳ではないが、蜂たちの行動にきちんとした科学的裏付けがあることは、物語の誠実な運びから十分に推察できる。

 女王蜂が君臨する帝国のために生きる働き蜂は、例外はあるものの、一生のうちに一度も交尾をせず、したがって卵も産まない。それでも、子孫繁栄のために生きる意味というのが、遺伝の仕組みにある。自分たちのもつ遺伝子型を残すには、確率的に、女王蜂に卵を産ませた方がいいのである。そのあたりの説明と、蜂の行動・心情描写が面白い。

 巣の中ではさまざまなギブアンドテイクが成り立っている。例えば、働き蜂の成虫は、巣で育つ幼虫のために餌(主に他の昆虫)を狩ってくるが、成虫は、餌を貰った幼虫が口から出す栄養豊富な「汁」をなめとって生きている(作中では、その「汁」はドーピングの如く力がみなぎる代物として描かれていた)。また、自分たちを産み、自分たちの遺伝子を残してくれる女王蜂のために働くこともそうだろう。一方で、女王にその能力がなくなるや否や、驚くべき「革命」が起こる──。約半年の間に目まぐるしく変わる彼らの環境を、「巣全体でひとつの生き物」と捉えた記述がある。まさにその通りと思ったし、地球を一つの生き物と捉える「ガイア理論」を思い出したりもした。わずか数十日の働き蜂の一生を描いた異色の傑作と思う。

 

72. 川本英夫『飽きる力』(生活人新書)

再読したい度:☆☆☆★★

 人生における「飽きる」ことの重要性を説いた一冊。ずっと核心に迫ることなく話が展開していく感覚で、掴みどころがなかったのだが、著者の「哲学科教授」という経歴を読んで納得した。学生時代、哲学専攻の友人と話している感覚に近かったのだ。言葉では表すことのできないほどの膨大な思考を頭の中で繰り返し、その過程や理論、現段階での答え(のようなもの)を、慎重に言葉にしている印象だった。

 乱暴すぎるという指摘を覚悟で、著者の考えを端的にまとめるならこうだ。まず、「飽きる」ことは、選択の隙間を作ることである。自分は努力をして頑張っている。だからこの努力を継続すればきっと良い方向に向かうだろう。そうやって、偏った考えで、視野が狭くなって、突っ走っているときに、「飽きた」と口にしてみる。初めは自分も何に飽きているかわからないが、そこに「隙間」が生じる。その隙間が、ひょっとして異なる努力のモードがあるのではという考える時間を与える。立ち止まり、速度を遅らせて、選択肢を開く時間だ。

 乳幼児の発達段階において、飽きることは天性だという。そして、この天性が消えていくことこそが「成長」であるといえる。これについては、我が息子の行動を思い返して納得した。出先から家に帰るたった5分の道のりで、彼は、手を繋ぐことに飽き、前に進むことに飽き、歩くことに飽きる。葉っぱに触ってみたり、蟻を追いかけてみたり、鳥や月を指差してみたり、物の隙間に入ってみたり。行動の切り替わりには、常に「飽きる」があり、その瞬間、選択肢を広げているのだ。速度は遅くなるばかりで、5分の道のりは、10分、20分といくらでも長くなる。これを、いい年をしたオッサンがやっていたら異常だ。「成長しろ」といいたくなる。

 しかし、「成長」した状態は、同時に選択肢が狭まった状態なのだ。大人は、とりわけ日本の大人は、「飽きる」ことに抵抗しすぎるきらいがある。視野、経験を狭めないためには、本来は感性で起こる「飽きる」という状態を意図的にでも作り上げる必要があるのだ。

 途中、オートポイエーシスという理論が出てきて、なんだがよくわからなかった。無理矢理に日本語訳すれば、自己制作。おのずと自己が形成されていく仕組みだそうだ。自己というのは常に生成プロセスの最中にある。そして、生成プロセスが、次の生成プロセスに接続するように行為することから成るシステムを、オートポイエーシスというそうだ。そして、次に接続する生成プロセスは、実は常に複数個あるのだという。息子の行動で解釈してみよう。「歩道を歩く」という行為が微妙なバランス感覚を生成したとして、次には「まっすぐ帰ろう」、「走ったらどうなるだろう」などの選択肢が考えられるだろう。だが、息子は歩くことに「飽き」て、「蟻を追いかけて捕まえてみるか」と繋がる。それよって「蟻って強く掴むと死んじゃうんだな」という知識や倫理の生成プロセスが接続する。専門家にみられると怒られるかもしれない例だが、「飽きる」ことの意味は、こういった選択肢と経験の拡大であると理解する。