ライ麦畑で叫ばせて

日常/数理/旅や触れた作品の留書/思考の道草 などについて書いています。

傘もささずに僕達は

 

 ある雨の日、鍼灸院にて腰痛の治療を受けた帰りに、自分の傘がないことに気がついた。入口の傘立てに置いてあったのが姿を消していた。どうやら、誰かが取り違えたらしい。

 何の変哲もないビニール傘だったのだが、使っていれば多少なりとも愛着が湧くもので口惜しく、なにより、降り続く雨の中、二十分の道のりを傘なしで濡れて帰れねばならぬ状況に辟易とした。これらの感情が、私の中で攻撃的なものへと変わるのに、それほど時間はかからなかった。怒りは突沸のごとく急激に頂点に達した。当時の私は、こんなことをつぶやいていた。

人の傘を間違えて持って帰るやつは生きる価値なし! お前は自分の持ち物もわからんのか? お前のせいで濡れて、新しい傘を買って余計な出費をしないといけないかと思うと、怒りがおさまらん!

 ──なんて恐ろしい人だ。今になって、客観的にみるとそう思うが、当時は本気でこう思っていたし、この怒りは私が「ある失態」をおかすまでしばらく消えなかった。

 後日、仕方なく傘を買い、ある雨の朝を迎えた。新しい傘の、初の出番だった。雨のせいでいつもより混雑する電車内で、人の邪魔にならぬよう、いつものように一番奥を陣取って、二十数分の読書に耽る。降車駅に着く間際、急いで本を鞄にしまい、下車する人の流れに乗って改札へと向かう。いつもと変わらぬ朝、そのはずだった。だが、階段の途中で気づいた。傘を電車内の手すりにかけたままだ! 新品の、まだ少しの愛着もない傘を──!

 この失態は私にとって鮮烈なものだった。物をなくしたのなんて、高校生のとき以来じゃなかろうか。ボランティア活動に行った小学校で、落としてなくしたボールペン。それ以来の失態だった。悔やまれる、今でも悔やまれるぞ!

 だが、この失態が、私という人間を少しだけ優しくした。人は、間違い、忘れる生き物だ。私は、立て続けに傘をなくした。それは私の「傘運」がなかっただけだ。そう思えるようになった。あれだけ憤慨しておいて、恥ずかしい思いもある。どの面下げて語っているのかと。傘があったら入りたい。透明でない立派な傘で、すっかり顔を隠して。

 それ以来、今でも傘は買っていない。折り畳み傘でなんとかしている。小さく畳んで、都度鞄にしまえば、間違われることも、忘れることもないからだ。こうしてしばらくは「傘運」を引き寄せようと思う。

 今朝、自宅付近の登り坂の前に、キャリーカートが置き去りにされていた。高齢者がよく引っ張っていて、道端で老婆が座っているようなヤツだ。荷物はたくさん入っているようだった。周りに持ち主らしき人の影はない。私はこれを見て、これくらいの寛容さがなければと思った。こんな重い荷物を引っ張って、朝っぱらから坂を登るのはしんどいと。だったら一旦置いて帰ればいい。

 雪国の山道、想定外の大雪で、道端に置かれたままの原付を思い出した。私の通った大学の周りでは、よく見かける光景だった。春になり、雪が溶けると再び姿を現す原付、原付、原付。いいじゃねえかと。暖かくなったら乗って帰れば。気が向いたときに荷物を引っ張って坂を登れば。傘がないなら濡れて帰れば。

 

*タイトルは『黄昏のビギン』の歌詞を引用した。