ライ麦畑で叫ばせて

日常/数理/旅や触れた作品の留書/思考の道草 などについて書いています。

行く道、帰る道

 弊所の最寄駅でも、最近はリクルートスーツを纏った新卒採用者らしい若者が目立つ。背筋を伸ばし、我々の眼前には希望しかありませんといわんばかりの凜とした態度で、車内や改札前でたむろして、彼らは高尚な雑談をしている。あとは、改札を出たところできょろきょろと辺りを見回しながら誰かを待ち、あるいはわざとらしく、いささか大袈裟にふざけて自らの知性の低さをひけらかす学生たち。別に絡まれたり、とって食われたりすることなどあるはずはないのだが、私は毎朝、彼らの視界にはなるべく入らないよう、伏し目がちに、度を超えた早足で、地上へ続く階段を駆け降りる。

 出社時間が特に決められていない私は、朝の通勤を急ぐ理由といえば、彼らのような華々しい、陽の世界に生きる人を避けることぐらいのものである。一方、帰路においては一応急ぐ理由がある。保育園に通う子の迎えや夕飯の調達という実務的な用事もあるが、それ以前に、さっさと家に帰りたいのだ。この心理的理由が、揺るぎないものとして、私の思考の中核に鎮座している。

 この「急ぐべき理由」を反映して、私の通勤と退勤の経路は微妙に異なっている。直角三角形を想像して欲しい。直角に向かい合う辺を斜辺というが、ここではさらに、直角をなす残りの2辺のうち短い方を短辺、長い方を長辺とそのまま呼ぶことにする。まず、斜辺と短辺の交点に駅がある。そこから短辺をなす歩道を行くと、交差点に辿り着く。ここが直角だ。90度向きを変え、長辺なる歩道を進み切ったところが弊所である。

 短辺と長辺が民家やビルなんかに面していると、当然その中を通過することはできないのだが、ここには大きな病院がある。病院の正門をくぐり、そのまま建物内に入ることはせず、脇道から駐車場を突っ切って、獣道をゆき、歩道に出る。これがちょうど、駅と弊所を直線で結んだ「斜辺」である。

 三角形の2辺の長さの和は他の1辺の長さより大きい。よって、病院の敷地を通過することの道徳観はさておき、斜辺を行ったほうが当然速いのだ。弊所職員でもこの斜辺を利用する人が多いし、何を隠そう私もこの抜け道を利用している。だが、それは「帰り道」だけだ。朝はどうしてか、この斜辺を行く気になれないのだ。それは先に述べた「急ぐ理由」の違いからくる感情かわからないが、もうこの使い分けが染み付いてしまっている。

 最近、朝に短辺から長辺を通り弊所の前に着くと、よく会う人がいる。弊所の事務方の女性なのだが、実は彼女、弊所に見合わぬ美貌と愛くるしさを兼ね備えた人物なのだ。形容すると、そうだな、読モ。読者モデルがなんたるか、実のところ私はよくわかっていないのだが、そんな得体の知れない言葉で形容したくなるほどの、掴みどころのない華やかさを、彼女は放っている。

 晴れた日は日傘を差し、すらりとした長い足を、ゆっくりと、優雅に動かしながら、彼女は斜辺を歩いてくる。その姿は、不道徳と怠惰、匆々の権化たる斜辺の道とはあまりにも不釣り合いだ。果たして、彼女は急いでいるのだろうか? 急いでいるのだろう。最近、彼女は忙しいことで有名な部署に異動になっていた。だからこそ、薄暗い駐車場を突っ切って、ショートカットをしているのだ。仕事め、こんにゃろう! と心の中で叫びながら。

 彼女は帰りも斜辺をゆくのだろうか。人にはそれぞれ、急ぐ理由がある。彼女はきっと、帰りはゆっくりなのだ。仕事を終え、晴れ晴れとした気分で、途中のカッフェーで買ったキャラメルラテなんか片手にもちながら、長辺から短辺を、華麗にゆくのだ。そうであって欲しい。いや、そうに違いない。そんな無意味な妄想をしながら、私は努めて伏し目がちに、彼女を追い越し、今日も弊所の玄関に吸い込まれてゆく。