ライ麦畑で叫ばせて

日常/数理/旅や触れた作品の留書/思考の道草 などについて書いています。

緑の閃光

 

 私がグリーンフラッシュを見たのはこの海だった。

 この海と一口にいっても、当然ながら太平洋は広大だ。洋上に浮かぶ船で体感するそれと、今こうして、防潮堤に腰掛けながら眺めるそれは、空間的には繋がっているにしても、果たして一括りにして良いものか、些か疑問ではある。

 日没の直前に、太陽が緑色の閃光を放つことがある。空気のきわめて澄んだ日に、水平線や地平線を遮るものがない場所で起こるこの現象は、グリーンフラッシュと呼ばれている。

 私はそれを、この太平洋のど真ん中で見た。見渡す限り水平線。穏やかな夕暮れ時は、緑の閃光にとって好条件この上ない場所だった。

 その一瞬の閃きは、私の悩み、そして私という存在がいかに矮小であるかを知らしめた。

「太陽は、太平洋には絶対沈まないんだって」

 粉雪がちらつく街路を歩きながら、彼女は言った。

 私の実体験を交えつつ、反例ならばいくらでも挙げられたが、そのときの私は、短く微笑して「そうだね」とだけ答えた。彼女は、洋上の生活はおろか、グリーンフラッシュさえ知らないはずだった。

 忘れたいことは山ほどあったが、そのほとんどを忘れ損ねた夜だった。どうしても、言い出すことができなかったのだ。

 上空を覆う枯木立は、鬱陶しい程に白色の電飾で飾られていた。その中から緑色の発光を見つけると幸せになれるのだと、彼女は笑っていた。

 一人で座り込む浜辺の夕暮れは、太陽あるいは電球の緑色光とは正反対の、鈍色の薄闇に覆われている。

 その荒涼たる景色とは裏腹に、海はあまりにも穏やかだった。その包容力に、思わずため息がこぼれた。しかし、その吐息でさえ、すぐに細波に吸い込まれて消えた。

 背後から足音が近づいてきた。海という神秘的な存在とは異質の、靴底が防潮堤のブロックに砂を押し付け擦り潰す不快な音だった。

 はい、という声もなしに、彼女は缶コーヒーを差し出してきた。左手には何やら小さな紙袋をぶら下げている。

 彼女の表情は、怒っているとも、笑っているとも見えた。

「ありがとうは?」と彼女が促す。それがなぜか、「ごめんなさいは?」と責められているように聞こえて、私は返事を躊躇った。

 私が言葉を絞り出すより先に、寒鴉が笑うように一度だけ鳴いた。声はすれども姿はない。想像した鴉は、彼女のマフラーの深緑のせいで、漆黒からわずかに色褪せている。

 雲が途切れ、遥か西に沈みかけた太陽が現れる。突然の光に目が眩み、彼女の存在は一層黒く浮かび上がった。目が慣れると、橙の夕日は、深緑のマフラーを鮮やかに変貌させていた。

 鮮烈な光の帯が、彼女の長い髪を巻き込んでいる。そのせいでたわみ膨らんだ彼女の髪は、水平線へ沈みかけて歪んだ太陽の形に似ていた。

 あの夜に忘れ忘れた全てを忘れるために、準備してきた言葉があった。だが、彼女の輪郭が放つ歪な緑の閃光は、私の忘れたい全てを置き去りにして、その言葉だけを痛烈に忘却させた。