ライ麦畑で叫ばせて

日常/数理/旅や触れた作品の留書/思考の道草 などについて書いています。

埃舞い、光を掴む

 

 息子が一歳になった。

 彼にとっては自分の力でできることが増え、また我々はそれに応じて気付かされることが多い毎日だ。

 彼の微笑ましい動作の一つに「手をぐっと握り、ぱっと開く」を繰り返すというものがある。光り輝くものを指して、我々大人は手をパーに開いたまま手首を捻って手のひらと甲を交互にみせてやる(歌『きらきらぼし』の手遊びといえばわかりやすいか)のだが、どういうわけか、これをみると彼は「ぐっ、ぱっ」をするのだ。

 はじめは大人の真似をしようとしても出来ず、結果的にこの動作になっているのだと思った。それも恐らく一因だろうが、どうやら少し違った意味もありそうなことに、最近気がついた。

 彼の目、「ぐっ、ぱっ」の手、その延長線上に必ず光源がある。光源に向かって手を伸ばしている。彼は、光を掴もうとしているのではないか。手にすることのできる物体とその他の事象との境界が、彼にはまだないのではないか。『名月をとってくれろと泣く子かな』という小林一茶の一句が思い出されもするが、そういえば、この推測を裏付けるような行動は、他にもある。

 彼は風が好きだ。保育園の広いホールでみんながボールを追いかけているときに、彼は部屋の角の扇風機に張り付いているらしい(もっとみんなと遊んでくれよ)。家でも窓を開ければ寄ってきて、気持ちよさそうに風に当たっている。そして、その時も「ぐっ、ぱっ」をするのだ。彼はきっと、風を掴みたいのだと思う。

 部屋に日の光が差し込んだときなど、空気中を舞う埃が白い光の粒として可視化される。大人になるとそんなものは当たり前の光景で気にもとめないが、彼はハイハイで速やかにそこに向かうと手を伸ばし、埃を掴もうとする。そういえば、私も幼い頃、といっても一歳よりはずっと後だが、両親にその「光の粒」について尋ねたことがある。これはなんだと。人はこれを吸っても大丈夫なのかと。そして聞かされた「埃が浮いている」という事実が本当に受け入れ難く、見えたときにはなるべく息をしないようにしていた記憶がある。

 私のホンモノめいたエピソードはもうやめにして本題に戻りたい。彼にはまだいろいろな境界が備わっていない。したがって、余計な知識によって生じてしまう「思考の制限」が、彼にはまだほとんどないのだと思う。たとえば、絵本に熊が出てきたときだ。熊は、本物よりずっと柔らかな印象の絵のときもあれば、実物により近いリアルな見た目のときもある。だが、その見た目を問わず、彼は熊をみれば部屋のある一点を目がけて動き出し、そこ置かれたあるものに飛びつく。それは大きな「プーさん」のぬいぐるみなのだが、彼には「絵」、「実物」、「キャラクター」などの思考の境界がないことがよくわかる。

 百円で買った小さなビニールボールを彼に向けて転がしたときだ。それはオレンジ色に黒の曲線が入った、よくみるバスケットボールの柄だった。ボール遊びに誘うつもりで転がしたのだが、彼はそのボールを持ったまま、一目散に本棚へと向かった。仕方なく、彼が取り出してきた本を一緒に開くと、オレンジ色の虎のキャラクター「ティガー」を指差し、彼は笑っていた。なるほどたしかに同じ柄だ。生物か物体か、球体か四肢があるか、などという枠組みもない。見た目でも音でも、何かが思考の中で繋がれば、それは喜ぶべき発見なのだ。

 彼の言動にはっとしたことは、他にもたくさんあったはずだ。だが、それは我々が大人になる過程で作ってしまった「型」とあまりにもかけ離れているせいで、すぐにこぼれ落ちて忘れてしまう。それでもなんら問題はないのかもしれないが、折角の気づきがもったいないと思ってしまう。だから、これからも気づきはなるべく書き留めたい。そして、私や、彼や、誰かが、何かを掴むきっかけになればと思う。

 

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