ライ麦畑で叫ばせて

日常/数理/旅や触れた作品の留書/思考の道草 などについて書いています。

感想33『文字禍・牛人』

 

53. 中島敦『文字禍・牛人』(角川文庫)

再読したい度:☆☆★★★

 図書館シリーズ。短編六編が収録された一冊だ。著者の代表作といえば『山月記』だろう。山月記が虎への変身なら、収録の『狐憑』は憑依、『木乃伊』は輪廻、『文字禍』は精霊、『牛人』は化物の国取りと、空想のオンパレードで、それぞれユーモアと皮肉をこめて描かれていて飽きない。かと思えば、残りの『南斗先生』と『虎狩』は妙にリアルで、実体験が多分に含まれているのではと思う。著者のさまざまな一面が見られる一冊だ。

 ここでは中でも気に入った『文字禍』について書いておく。これは、「文字には精霊が宿っているのではないか」という問いを学者が探求する話だ。感じたのは、「文字」というものに対する極上の皮肉だ。いくつか文を引用しよう。

一つの文字を長く見詰めている中に、何時しか其の文字が解体して、意味の無い一つ一つの線の交錯としか見えなくなって来る。

これは今でこそゲシュタルト崩壊としてよく知られた心理現象だが、それにいち早く気づいているとみえる。線の交錯が何故意味をもつ? 精霊の仕業である。

近頃人々は物憶えが悪くなった。之も文字の精の悪戯である。人々は、最早、書きとめて置かなければ、何一つ憶えることが出来ない。

最近では書くことすらしなくなった。PCやスマホに打ち込んだメモは、書いたものより忘れやすい気がする。

書かれなかったことは、無かった事じゃ。芽の出ぬ種子は、結局初めから無かったのじゃわい。歴史とはな、この粘土板のことじゃ。

文字は文明に必要不可欠なものだ。しかし、記録をはじめた瞬間から、文字という精霊の「フィルタリング」が始まる。

文字の精は彼の眼を容赦なく喰い荒し、彼は、ひどい近眼である。

文字の精は、又、彼の脊骨をも蝕み、(略)

文字を覚えて依頼、咳が出始めたという者、くしゃみが出るようになって困るというもの、しゃっくりが度々出るようになった者、下痢するようになった者(略)

ぜんぶ精のせいだ。私の文が稚拙なのも、文字の精が私の言うことをうまく聞いてくれないからなのである。