ライ麦畑で叫ばせて

日常/数理/旅や触れた作品の留書/思考の道草 などについて書いています。

感想32『陽だまりの彼女』・『午後の曳航』

 

51. 越谷オサム陽だまりの彼女』(新潮文庫

再読したい度:☆★★★★

 見慣れない本が私の棚に入っていたので、おやと思い手に取った。妻のものが本棚の整理中に紛れたことを数ページ読んで確信した。

 学生時代に互いに恋心を抱いていた男女が、取引先との打ち合わせで運命の再会を果たす。序盤はゴリゴリの恋愛ものの雰囲気で、甘ったるくて何度か読むのをやめようと思ったのは内緒だ。

 中盤まで辛抱すると、少々意外な展開を見せ始める。彼女がどこか普通でないのだ。彼女という「謎」を知りたい感情が、ページをめくる手を加速させた。終盤に差し掛かると、話がどう着地するのか気になって仕方がなかった。だが、読んでいる途中で、ある程度結末の予想がついてしまったのも内緒だ。

 

52. 三島由紀夫『午後の曳航』(新潮文庫

再読したい度:☆☆★★★

 図書館シリーズ。タイトルに惹かれて借りた。曳航(えいこう)とは、船がものを引っ張って航行することだ。我々も測器を引っ張りながら観測することがあって(そういう機械は曳航式〇〇と呼ばれる)、その語句・行為が三島氏の手にかかるとどういった変貌を遂げるのか気になったのだ。しかも、開いてみれば舞台は横浜のよく知る地域で、船乗りのよく使う用語が多用されるとくれば、親近感を抱かずにはいられない。

 未亡人の美しき女と、聡明さと達観した考えをもった女の息子、そして船乗りの男の三人の出会いから崩壊までを描いている。語りの視点は三人で切り替わっていくから、それぞれの人となりが掴みやすかった印象だ。ところどころにスパイスとして散りばめられたエロティシズムやグロテスクも、圧倒的な語彙と描写によって、嫌な感じの一切ない、「文学」に昇華している。

 先に述べた三人の印象について一言ずつコメントしておく。まず、女。恋心、自分への自信、世間体に挟まれながら沸々としてくる狂気。その描き方は流石で、『愛の渇き』を思い出した。少年。あまりに聡明で、あまりに鋭い感性をもつあまり、つるんでいた悪い友人(良し悪しという尺度は正しくないかもしれないが、ここではあえて「悪い」と表現する)に感化されてしまうのが、私は非常に惜しい。船乗りの男。陸が嫌だから、結果的に海に生きた男。一方、少年の虚像は、海すなわち陸から離れた空間(そして、そこに生きる男)を神聖なもの、反対に陸を穢れたものとしている。その理想と実際の乖離が、ある悲劇の引き金となるのだ。

 さて、三島氏の手によって描かれた「午後の曳航」の正体は何だったのか。まず、二章構成であるこの小説の後半は、まさしく「午後」の雰囲気である。明るい未来を連想させる第一章(午前)と対比して、淡々と、だが着実に暗い闇へと向かうのが第二章(午後)が、本小説の肝といえよう。では、「曳航」とは何だったのか。大人びて、ひどく歪曲した高すぎる理想像を片方に、そして、全ての理想が実現可能と信じて疑わぬ子どもの思考をもう片方に引きずる少年のすがた。幸せを欲しながら、世間体を気にして一向に取り繕うことを忘れられない女の足枷。栄光(すなわち海)、女、死を三位一体の幸福と信じ、女を求めるあまり残りの2つを失いかける船乗りの後悔。あるいは、男が海の彼方へ置いてきてしまったその栄光(えいこう)との掛詞。読後しばらく尾を引く、鬱々とした後味の悪さ。どれも正しいようで、どれも違うような気もする。思考の種が散りばめられた作品だった。