ライ麦畑で叫ばせて

日常/数理/旅や触れた作品の留書/思考の道草 などについて書いています。

友達百人

 

 先日、私がいつものように、何か私の異常っぷりをありのままに見せつけたとき、そんなんだから友達が少ないんだ、と妻に言われた。そして息子の名を呼び、〇〇は友達百人作るんだもんね、と語りかけた。九ヶ月の息子は、なんのことやらただニヤけているだけだったので、友達が百人もいたら処理しきれない、と代わりに私が答えてやった。妻は、友達は処理するものではない、と呆れていた。

 そうなのか。友達が百人いたら、友達1、友達2、──、と配列にして、DOループで1から100まで、機械的に順序よく遊んで処理していくのではないのか。しかし、そんなことをしたら、会ってみて特別に楽しかった「友達32」とは、他の99人と遊んだあとでないと再び会うことはできない。それはつまらない。ならばもっと高速で回すか? それでは私の思考という名のCPUも、肉体という名のPC本体ももたない。ほら、処理しきれない。

 友達というのを対等に扱っているからいけないのかもしれない。友達に重み付けをして、IF文で条件を設定して、親密度がある一定の値以上の人とは頻繁に会うことにしよう。その親密度は時間の関数になるだろう。一緒にいたときの会話の弾みやすさ、居心地の良さ、食事の好み、共通の話題、学ぶことの多さ、──、考慮することは沢山だ。こいつは忙しくなってきたぞ。

 しかし、プログラムを組んでいる途中で、ふと思う。私にはできない。私には、友達に重み付けをするなんて非道なことはできない。そして、同時に納得する。だから私には、友達と呼べる人が極端に少ないのだ。

 私には、友達として用意されている配列の数がそもそも少ない。そこに入り切らないひとは、なんだろう、何か他の配列に格納されるのだろう。例えば、仲の良い先輩、後輩、同期、上司、──。もちろんそういった枠組みは私にもあるし、そんな人たちと会って、飲んで、話すことは結構楽しめる質だ。だが、友達とは少し違う。

「友達」の多い人に共通していることは、自分に自信があることだと思う。先日、出向して職場をしばらく離れている上司と久々に顔を合わせた。彼は、かつて関係のあったグループを一から百まで(DOループで?)まわって挨拶していた。実にまめな方だと感心した。そして同時に、私にはそれができないかもしれないと思った。相手側が、私のことなど何とも思ってないのではないか。そんな薄い関係の者に挨拶されても困るのではないか。そう考えてしまう。これは友達にも当てはまる。私が友達と分類している彼は、彼女は、私のことを友達の配列に格納しているのか?

 友達を沢山作ってランク付けしておくことと、友達を限定して絞っておくこと。どちらが非道で残酷なのか、よくわからなくなってきた。そもそも、友達が百人いる人の中には、百人とも平等に接していてランクなんかない! と怒る人もいるだろう。でも、それはやはり、処理能力と自己肯定感が優れている人にしかできない芸当だと思う。だから、やっぱり私には友達は百人も必要ないし、現状少ないながらも素敵な友達がいて幸せなので良い。