ライ麦畑で叫ばせて

日常/数理/旅や触れた作品の留書/思考の道草 などについて書いています。

最も幸せ

 

 友人が結婚する。一週間ほど前に、婚姻届の証人のサインを頼まれた。数年前に結婚する際、私が証人を願いしたのは何を隠そう彼だったから、遂に私にも出番が来たか! と喜ばしい気持ちだった。そして先週末、サインをしてきた。字の下手くそな私は、元来その行為自体に抵抗があり、彼らの幸福の一端を担う喜びを噛み締めるでもなく、ただ任務の遂行に努めてしまった感がある。

 サインは件の彼と、もう一人の友人と三人で会ったときにした。最後に押印してようやく落ち着いた時、「いやーほんとおめでたいねー。なんかすごい嬉しい!」という友人の明るい声を聞き、「そうだ。本当におめでたいな」と遅れて感慨が湧いてきたのだった。

 馴れ初め云々の質問攻めにあい、たじたじとなる彼を眼前にして飲む酒は、いつもとまた違う味わいであった。かしこまったことも、自らの幸せについて話すことも苦手な彼が、照れながらもぽつりぽつりと応答するさまを見ていると、なんだかこちらも気恥ずかしくなり、私も火照りを冷ますように、ぐいと盃を呷り続けていた。

お互い(結婚)しなきゃしないで別にいいって話はしてて。でも「するんだったら、そろそろ指輪じゃないの?」と言われまして。で、すぐに買いに行って。渡すときは「(指輪の入った)袋をご覧になっているので既にご存知とは思いますが」って言って。

「言われたので」とか「わかっていると思うけど」とか、やたらに予防線を張り、ぶっきらぼうに渡すあたりがまさに彼らしく、当時の姿が目に浮かぶようだった。幸福を語る不器用さは、私のよく知る彼そのものだった。だが、その既知の中に、新たな一面も確かに垣間見えていた。恥じらいつつも、律儀に委細を語る彼。それは、根掘り葉掘り訊こうと意気込む友人がいたからこその姿であって、私と彼だけの空間では見なかったものに違いない。彼のことはよく知っていると自負していたが、実際は、私の知らぬ面というのが幾つもあるのだ。そして、それらを含む全ての面のうち、最も「素」に近い面というのを、あるがままに肯定し迎え入れてくれる人を、彼は見つけたのだ。それは、感慨深いことだ。

 三人とも良い具合に酔ってきて、話題が何処からか発展し、彼が「最高の文章とは何か」と問うてきた。そのときは「少し考えさせてくれ」と返したきり答えを出せずにいたのだが、帰りの電車で三つ、思い浮かぶ条件があった。一つ、簡潔であること。二つ、漠とした思考を言葉にして、読み手に新たな気づきを与えること。三つ、書き手の生き様が窺えること。友人は良い文を「文章に殴られる」と表現するが、一が正確性や瞬発力、二が技術やスキル、三が強度や重みとすれば、文と拳の対応づけも悪くないのではと思う。

 この条件から導き出した私なりの「最高」の文の話は次回にするとして、ここでは彼の告白もまた"One of the best"な文章であるといいたい。彼の告白は、肝心なことを一切言っていない。我々に言うのは恥ずかしいだけで、婚約者にははっきりと言ったのかもしれないが、それはもはや問題ではない。核心をあえて隠したとしても、彼の告白の意味は明白であり、かつ彼の普段見せない一面で我々を赤面させ、一方で不器用な彼の人生そのものを端的に言い表している。人生の節目となる言葉。それが最も良いものでなくて、なんだというのだ。

 私たちの結婚式のエンドロールで、彼と友人に送った言葉がある。それは『あなたたちのような友人に出会えて、私は幸せです』だった。これがくさいとかどうとかいう話はひとまず抜きにして、もう一度、この言葉を声を大にして言いたい。他人の幸せを願えるような清らかな人間ではないので、利己的になってしまうことは許して欲しい。君には、なにが良いだの、なにが最高だのとあまり気張らないで欲しい(そんな議論自体は私も楽しくて好きなので、それはまた飲むときにでも)。君の文章は、幸せは、生き様は、我々友人や家族を必ず幸せにしているから。君の幸せ──それはひいては私の幸せでもあるのだ──を、どうもありがとう。そして、結婚おめでとう。