ライ麦畑で叫ばせて

日常/数理/旅や触れた作品の留書/思考の道草 などについて書いています。

「受けること」と「発すること」

 

 半年ほど前、諸事情により2ヶ月間くらい一人暮らしをしていた。だからといって変わったことはほとんどなく、普段通りのだらりとした生活が続いた。唯一、特別だったのは、自炊をしたことだろう。朝は納豆やめかぶをご飯にぶっかけるだけなので手間はないが、昼の弁当と晩飯は自分で作らざるを得なかった。

 一人暮らし当初、一念発起して食材を買い揃え、台所へと向かったときだ。棚をあけると、学生時代の私の家にはなかった調味料が沢山並んでいた。料理の上手な妻が揃えたそれらをみると、馬鹿舌で料理の不得手な私でも、不思議と心躍り、やる気がみなぎるのだった。

 面白いのは、いくら馬鹿舌といえども、自分の入れた調味料の味は感じられることだ。和風だしを入れれば和風の味になるし、魔法の中華の粉を入れればしっかり中華料理になる。自分で入れているのだから隠し味というのも変だが、風味付のレモンも、荒く削った岩塩や黒胡椒も、入っていることがわかれば、その味を探し出すことができるものだ。

 料理の上手な人は、そんな味付けと答え合わせの機会が多いから、きっと味の違いもよくわかるのだ。そして、味の違いがわかる人は、他人が作ったものを食べるだけでは物足りず、自分でより複雑な「理想の味」を追究するようになるのだろう。他人の料理の味の違いを理解することと、自分が美味い料理を作ること。ここには、「受けること」と「発すること」の確かな繋がりがある。

 外国語の習得においても「受ける」と「発する」は密接に関係している。文法や読解はからっきしだが、リスニングだけはピカイチという人がときどきいる。ある人にその訳を尋ねると、「昔から洋楽が好きで聴いていた」という。しかも、「カラオケでも洋楽しか歌えない」というのだ。一曲聴かせてもらうと、英語の発音が完璧だった。単語をつなげて発音する部分、そのせいで濁ったり縮まったり省略さたりする音が、自分で発音できることで、より良く聴けるようになるのだろう。

 夏季と冬季のオリンピックが続いたが、そこで目を見張ったのは若い選手の活躍だった。スケボー、スノボー、BMXなど、演技種目で特にそれを感じた。その原因を専門家は「ネットで上手な人の演技を簡単に見られる時代になったから」と分析していた。それが全てではないにしても、確かに、口で動作を説明されるより、実際に見せられたほうが自分でも習得しやすいこともあるだろう。

 

 一方で、「受ける」と「発する」が必ずしも連動しないこともある。少し前に、「ザ・ドリフターズ」のコントを現在活躍中の芸人たちがコピーして演じるという番組をみた。当時の本家のネタも再放送して、比較みたいにしていたのだが、そのおかげで、本家の凄さが良くわかった。現役の人たちも、確かに上手くコピーしていた。本家の土台があるから、それを発展させてより面白くなるひねりを入れているものも多かった。だが、本家には敵わない。本家には、ネタとして作られていないリアルがあった。ある本家メンバーは、それを「恨み」と表現していたが、ネタだからできるメンバーへの仕返しやストレス発散が、アドリブとして織り交ぜられていたのだろう。そういった生々しさは、いくら「受け」たところで、一朝一夕で「発する」ことのできるものではなかろう。

 あとは、勉強の方法。「10回書くより、100回みた方が頭に入る」という東大生か誰か賢い人の発言がSNSで話題になっているのをみた。頭のデキが悪いからかもしれないが、私はこれに首肯できない。いくら見て「インプット」した気になっても、いざ試験やなんかで「アウトプット」しなければならなくなったとき、私の場合はその練習(=書くこと)をしていないと、それができなかった。学部で数学を教えてくれた先生は「書くことは大事。摩擦が重要だ。黒板とチョークの摩擦、ノートと鉛筆の摩擦が、感覚を刺激して、脳に、記憶にそれを刻むのだ」と言っていた。人それぞれといってしまえばそれまでだが、私はその先生に同意する。「受ける」だけで「発する」練習なしには、「発する」ことのできないたちなのだ。

 セキュリティの都合で、社外ではメールの受信はできるが送信はできないという場面がある。メールの機能が単純に半減しているわけだが、それで何ら問題ないことがほとんどである。いかに私の関係する急用が少ないかということをよく表している。メールは1000件未読が当たり前という超多忙な先生を知っているが、1000「受け」たら、一体いくつ「発する」のだろう。少し気になるところである。