仕事で疲弊しきった友人と落ち合って、近所のスーパーに立ち寄ったときだ。
いつものように酒を選び、つまみのコーナーに向かった。
「最近、ナッツとドライフルーツにはまってるんだよ」
「俺も」「いや俺のほうが」「うまいよな」「うむ。それだけあればいい」
なんて会話をしていると、ふと目にとまるものがあった。ナッツとドライフルーツではなかったが、それらに近いものだった。
その商品はさながら光を放つ勢いで、「手にとって、友に渡せ」と語りかけてきた。
天の声に素直に応じて、「ほれ」と友人に渡してみせた。
彼はそれをおもむろに受け取ると、膝から崩れ落ちて笑った。「万能薬はここにあったか」と。
『気づけば元気』という商品がある。
ひまわりの種や、くるみや、小魚。それらが完璧なバランスで一袋に詰め込まれたものだ。特に凝ったことはしていないが、それがむしろ潔く、美しい。
「気づけば元気」
すごい響きである。もうずっと食べていたい。
これを肴に、3時のおやつに、サラダにふりかけて。
ミントタブレットがわりに携帯して、備蓄棚にあるだけで、神棚に祀って。
毎日食べたら、膝軟骨が再生したとか。
値千金のホームランを放った高校球児が、お守りとしてポケットに忍ばせていたとか。
銃撃を胸に受けるも、ポケットのコレのおかげで一命を取り留めた兵士がいたとか。
「気づけば元気」という断定が力強い。信頼感がある。
"If you notice, you are always fine"である。
"may be(かもしれない)"でも"must be(に違いない)"でもない。
気付いたら、あなたは必ず元気なのである。
『「気づく」⇒「元気」』という命題が真である。
ある命題が真のとき、その対偶も真であるから、『「元気でない」⇒「気づかない」』も成り立つ。
この逆である『「気づかない」⇒「元気でない」』は必ずしも成り立たないが、「最近、何にも気づかないな」なんて方は「元気でない」心配がある。『気づけば元気』をおすすめしたい。
気づかなくても元気なことはもちろんある。だが、逆説的に、あなたがそうと気づくまで、元気かどうかはっきりとわからない。
あなたが「気づく」瞬間まで、あなたの中では「元気」な状態と「元気でない」状態が重なっている。
この商品は、『シュレティンガーの猫』の理論をも内包していることになる。これはえらいことになってきた。
シュレティンガーもこの商品を好んで食べていたとか。
パッケージを開けるまで、商品に猫の死骸が入っているかどうかわからないとか。
PCに向かってこの文章を淡々と打ち込んでいるあたり、私もこの商品を買い求めたほうがいいかもしれない。
長期出張、嫌だなあ。ただそう思うだけである。
我々は、いつも何にも気づかない。