ライ麦畑で叫ばせて

日常/数理/旅や触れた作品の留書/思考の道草 などについて書いています。

感想27『悲しみよ こんにちは』

 

45. (著)フランソワーズ・サガン(訳)河野万里子『悲しみよ こんにちは』(新潮文庫

再読したい度:☆☆☆★★

 再読シリーズ。十代の少女セシルと家族、友人たちとの一夏の経験を描いた作品。早くに妻に先立たれ、以来刹那的な恋愛を好む父と、それを許容するセシル。夏季のバカンスで訪れた海沿いの別荘には、父とセシル、そして父の連れ込んだ若い娘。3人はなにも「考え」ない、馬鹿騒ぎばかりの休暇を過ごしていた。

 転機は、理性と知性で生きる女性アンヌの登場だ。生理的理由を「合理的」と呼ぶような感性の男たる父とは正反対の彼女は、父やセシルとは旧知の仲でありつつも、絶対に近しい仲にはなり得ないと思われた。しかし、その考えは裏切られ、父とアンヌはこれまでにない急接近を見せる。この予想外の展開に、セシルも否応なしに巻き込まれてゆくこととなる。父と共になにも「考え」ずに馬鹿騒ぎを満喫していたセシルも、アンヌの監視と軽蔑の眼差しによって、「考え」ざるを得なくなる。いや、馬鹿なふりをして本当は頭の中であれこれ考えていたのだが、その「考え」を強制されるようになってしまった。それに対する彼女の感情は、以下に端的に表れている。

考える自由、正しくないことも考える自由、ほとんど考えない自由、自分自身で人生を選ぶ自由、自由を選ぶ自由。わたしはこれからどんな形にでもなっていく素材に過ぎないから。でも型にはめられるのはお断りの素材なのだ。

 また、父の恋愛への向き合い方をみて、恋愛に冷笑的な態度をとっていたセシルにも、本気で思いを寄せることのできる男性が登場する。これらの人物・状況が複雑に絡み合って、さて、どんな『悲しみ』が待ち受けているのか──、というところで二部編成の物語は一区切り。第二部へと入ることとなる。時間軸自体は、過去を回想する成長したセシルにあるぶん、このあたりの匂わせ方が効果的でうまい。

 あとは、セシルが哲学を専攻する大学生という設定もよくできていて、それらしい、心に刺さる言葉が随所に散りばめられている。この深淵で繊細な文章を、著者は19歳にして、ほとんど想像で描いたというのだから恐れ入る。人生観や恋愛観、嫉妬、怒り、恐怖、悲しみ、快楽(肉体のリアルな快楽と、それについて考える知的な快楽)、全ての描写が最上級だ。

 実は、私の好きなアーティストGARNET CROWの曲に"Hello Sadness"というのがある。無論、この歌はサガン氏の本作に多大な影響を受けていることが、歌詞や曲の世界観からもありありと感じられる。本作とその曲は、私にとって、いつでも相互的に思い出される組み合わせである。この記事を読んだ方にも、是非一度、両作品を味わっていただきたい。

 作中のオスカー・ワイルドの言葉を引用して結びとかえたい。何事もシステマティックで味気ないものへと向かっていく世の中で、これや、表題にもある悲しみだけが、人間臭く、血が通っているといえるかもしれない。マーク・トウェインの言葉『ユーモアの源泉は喜びにあるのではなく悲しみにある。天国にユーモアはない』と結びつけて考えると、また深い味わいがある。

罪は、現代社会に残った唯一の鮮明な色彩である。