ライ麦畑で叫ばせて

日常/数理/旅や触れた作品の留書/思考の道草 などについて書いています。

まだ階段は一段飛ばしで下らない

 

 階段を一つ飛ばしで下りるのが怖くなった。おそらく高校生くらいまでは、難なく降りていたはずだ。少なくとも、中学時代には部活の階段トレーニングでやっていたから間違いない。

 階段を駆け下りることをしなくなったのはいつからだろう。上りは、一段飛ばしで駆けることが多い。特に用事もないのに、急いでしまう。下りるときだって急いでいないわけではないが、急ぐにしても、一段ずつ下りている。

 この恐怖に気がついたのは、一段飛ばしで駅の階段を駆け下りるサラリーマンをみたときだ。バッタか何かの昆虫類のように、跳ねるようにして階段を下っていく彼は、殺伐とした喧騒な朝の駅舎でも異質であった。努めて軽やかに階段を一段ずつ下りる私を、彼は風と共に追い越していった。常に早足の私は、同じ歩行者に追い越されることなどそうないので、正直少し驚いた。

 黒のロングコートに濃紺のスーツが、長身で細身のその男性にはよく似合っていた。足元にはよく磨かれた焦茶の靴が光っていたが、実は燐光を放つのはそれだけでない。何よりも輝くのは、綺麗に剃り上げられたスキンヘッドだ。そして、タイトめにストールを巻き、革手袋をして、頑丈そうなアタッシュケースまで携えている。申し訳ないが、ちょっとその筋の人にしか見えなかった。接近戦も遠距離射撃もお手のもの。そんな感じだ。

 その風貌の男性が、階段を飛び跳ねて下りるのだ。もう、何者かに追われているとしか思えない。お仕事でなにか失敗しちまったのか? だが、それは余計な心配だったようだ。男性が駆けるのは階段だけで、それ以外を急ぐ様子はない。むしろ、歩くスピードは遅いと言えるほどだ。華麗に追い越して行った彼の身なりを事細かに記述できるのは、階段の後、すぐに男に追いつき観察ができたためだ。

 なぜ、彼は階段だけ駆けるのだろう。運動のためだろうか。はたまた、近頃の私とは反対に、一段飛ばしでないと、降りるのが怖いからだろうか。残念ながら、真相に迫ることは叶わない。だが、他の多くの人が必死にならないところで必死さを見せる彼は、どこか新鮮で、輝いてみえた。燐光というのでなく、オーラ的な意味で。

 物心ついた頃、学校内で何となく広がる「全力がダサい」というような風潮とは少し違うが、大人──特に、運動が目的とは思えない格好の──が必死になって階段を駆ける姿は、想像すると格好悪く思える。しかし、「清潔感のあるスーツ姿の男は焦ったりしない」、「ヒットマン風の人が何振りかまわず急ぐのは、仕事を失敗して追われているとき」という予定調和をうまい具合に崩したとき、その姿は他人の記憶に奇妙な印象とともに残る。そんな、何か型を破ることが必要になったとき、私は怖いと思っていた階段の一段飛ばしを難なくやってのけるかも知れない。だが、今はまだその時でない。ひとまず今度、ランニングウェアでも着て、正式な格好で挑戦してみたい。