ライ麦畑で叫ばせて

日常/数理/旅や触れた作品の留書/思考の道草 などについて書いています。

肝油ドロップの匂い

 

 コンディショナーを替えて数日、ずっと何かの匂いに似ているなと思っていたが、ようやくひらめいたものがあった。肝油ドロップの匂いだ。

 乳白色の潰れた楕円体、さながら小さな碁石のようなそれは、表面には白い粉末か顆粒が付着していて、噛むとジャリっとした。一方で、中身は柔らかく、甘いグミのような印象だ。

 肝油ドロップは幼稚園時代の思い出だが、今でもなぜか鮮明である。夕方、園内から帰りのバスに向かう直前、園児たちは一列に整列させられた。そして、先頭から順番に、肝油ドロップを一粒ずつもらい、「先生さようなら」といって玄関へと向かうのだ。

 先生は缶から一粒ずつ、手際よくドロップを取っては園児の手のひらにのせていく。肝油缶。黄色い缶で、側面には子供の顔の写真が載っていたはずだ。白黒のそれは、少しホラーな印象だった。笑顔の子供の首から上だけが、缶の中央に浮かぶように描かれていた。そんな色味とデザインが、えもいわれぬ怖さと古めかしさを醸し出していた。

 誕生日の園児は、ドロップが二粒もらえた。週末や長期の休暇に誕生日を迎える人は、直前の登園日に前倒しでもらえた。年に一度の二粒にはさすがに特別感があったが、同時に、いささか複雑な心境でもあった。個人差があるだろうが、私としては肝油ドロップはそこまで美味しいものではなかった。しかも、当時は栄養や効果について知識も関心もない。体の成長どうこうといわれても(そもそも言われたことすら無かったかもしれないが)ピンとこないのは当然だ。

 二粒もらえることをあからさまに喜んでいる友達もいた。誕生日ということ自体の嬉しさや誇らしさがすり替わっての反応ではと思うが、文字通り飛び跳ねて喜んでいた。誕生日の人が二粒もらったのをみて、「自分も欲しい」と駄駄をこねる者もいた。そして、「○○君はこの前誕生日だったでしょ」と先生にたしなめられるのだ。

 私はというと、二粒もらえた喜び、誕生日という不思議な誇らしさを隠すように、ただにっこりしていた。いや、嬉しさを隠したふうを装っていた。みんなが喜んでいるから、喜んでおくか。でも、オーバーに喜ぶのはやめておこう。そんな微妙な振る舞いだったと思う。誕生日は誰にでもあるわけで、したがって、肝油ドロップを二粒貰える日も皆に平等に与えられている。それくらいに思っていた。

 今思えば可愛くない園児だが、それでいて結構モテていた。偽りの笑顔がうまかったからか、はたまた空気を読むのがうまかったからか。幼稚園バスでは私の隣の席の取り合いが起こっていたほどだ。これは嘘ではない。それを証明する術がないのが残念だ。

 長期の休みの前には、肝油ドロップ購入申込書が配られた。我が家でもそれを買ったものだった。自宅でも、一日一粒。母親から貰うそれは、幼稚園での一粒とはまた違った、などという感情からくる味の差異は全く覚えていない。ただ、半透明の収納ボックスに入れられた肝油缶の黄色が、外からうっすらと見えていたことだけを、はっきりと覚えている。

 コンディショナーに肝油ドロップの匂いを感じたのだから、もしかしたら、コンディショナーも甘いかもしれない。試しに舐めてみようかな、などということはしない。なぜなら、私はもう幼稚園児ではなく、大人だから。

 

↓検索したら出てきた肝油缶。驚くほど記憶と一致していた。