ライ麦畑で叫ばせて

日常/数理/旅や触れた作品の留書/思考の道草 などについて書いています。

私だけの音楽

 

 中・高生の頃に熱心に聴いていたアーティストがある。GARNET CROWという男女4人組のバンドだ。自室にいてぼんやりしているときは大体聴いていた。音があると集中できないたちなので、本や漫画を読んだり勉強したりするときは止めたが、それ以外はずっと、睡眠中も流れていた。日常に溶け込んでいたという意味では、「熱心に」というよりはもっとクールだったかもしれない。

 先日、GARNET CROWの曲をスマホでランダム再生しながら、風呂掃除に没頭していた。最近は音楽配信アプリにオススメされるがままに流行りの音楽を聴くことも少なくなかったので、彼らの昔の曲たちがかえって新鮮に思え、一人風呂場で気持ちよく熱唱した。

 当時、「〇〇という歌手は××という歌手のパクリだ」ということが話題になった。実際、雰囲気は確かに似ていたし、ある人がテレビ番組でそのことに触れ、疑惑は一層盛り上がったようだった。GARNET CROWの楽曲にも、他のアーティストのパクリ疑惑が浮上したものがある。そのため、というわけではなかったかもしれないが、当時の私は、音楽のド素人ながら、ある壮大な心配事を抱えていた。それは、「いつか、あらゆる音の組み合わせが使われてしまって、新しい音楽が作れなくなるのではないか」というものである。

 音楽をやっている人からしたら、余計なお世話とは違うかもしれないが、何を訳わからんことを言っているのだと一蹴されて終いだろう。だが、私は大真面目に心配していた。音階は限られているのだから、4分とか5分とかで一曲を作るとしたとき、その時間に収まりきる、音のあらゆる順列や組み合わせが使い切られる日が来るのではと考えていたのだ。全く同じ曲とはならないまでも、「この部分はあの曲の出だしと一緒」とか、「これとあれはサビに向かう部分が同じ」とか、そういう指摘は確実に増えていくだろうと恐怖していた。

 だが、あれから20年近く経った今でも、全くそんなことにはなっていない。音楽は紀元前3000年からあったらしい。ざっと5000年もの間、新しい音楽が生まれ続けてそうなっていないのだから、これからもしばらくは安心してよさそうだ。

 GARNET CROWは2013年に解散してしまった。当時はとてもショックだったが、今となっては「安心」という感情の方が大きい。これも、「一つのアーティストが生み出すことのできる良い曲には限界があるはず」というお節介な考えがあったためだ。最高の曲たちで彩られた最後への喜びと、逆説的に、もうGARNET CROWから良い曲は生み出されることはないという安心感。私がぼんやりしている間に、彼らの新たな良い曲を聴き逃してしまうのでは、という不安から解放されたのだ。

 そういえば、私の好きなアーティストの中には、既に解散や引退をしている人たちが少なくない。GARNET CROWのように好きで聴いているうちに居なくなってしまう場合と、勧められるなり自分で見つけるなりして気に入り、辿っていくと実はもう居なかったという場合とがある。どちらの場合も、一曲一曲だけでなく、アーティストとしての「完成」が、好意をより大きくさせているように思う。

 音楽との出会い方、関わり方の変化から、最近は「このアーティストのこの曲だけ知っている、あるいはこの曲だけ良い」ということが増えた。酷いときは、誰の何という歌なのかも知らずに「良い!」とだけ思っていることもある。こういった変化の良し悪しは私には判断しかねるが、風呂掃除をしながら、歌詞を見ずとも何曲も熱唱できるようなアーティストは、これからはそう現れそうにない。