ライ麦畑で叫ばせて

日常/数理/旅や触れた作品の留書/思考の道草 などについて書いています。

感想25『あすなろ物語』

 

42.井上靖あすなろ物語』(新潮文庫

再読したい度:☆☆☆☆☆

 読み始めてすぐ、いつか読解問題で取り上げられていたのを読んだことを思い出した。一度問題を解いただけなのにはっきりと記憶に残るほど、問題の部分(本書の第1章の終盤にあたる)は自分にとって鮮烈で美しいものだった。しかし、読み進めるうちに、覚えている箇所があまりに多く、別の機会に一度全文を読んだことがあるのかも、という疑念が湧いてきた。船上か何処かで読んだのかもしれない。だが、この作品は何度読んでも良い。折に触れて読み返したい作品に(再び?)巡り合えた。

 本作は、「神童」と呼ばれた聡明な少年鮎太が、人との出会いと別れを繰り返しながら、一人間として成長する過程を描いている。大事な人の死があり、進学と移住があり、大戦への出兵があり、就職があり、結婚があり、終戦があり。語り口は無駄や小細工なく淡々としているが、機微を穿つ表現力には感服である。

 幼少期から青年期にかけては、勉学に真面目だった鮎太が、周囲の人間や環境の影響を受けながら、授業をサボれば殴り合いの喧嘩もする、生臭い「人間らしさ」を会得していく過程である。意味や理由を考えることをしない幼少期の勉学への盲信は、「自分は何者かになれるのか」というある種哲学的な問いに気づいた瞬間から、反動として鮎太を苦悩させている。

 そして、大きな転機といえる出来事が二つある。一つは戦争からの生還、もう一つは初めての女性経験である。6章構成のこの作品中では、各章を象徴する特徴的な女性が登場する。その6人全員が読者にとっても魅力的であり、当然鮎太に多大な影響を与えているのだが、とある女性(あるいはその虚像)に対する執着からの脱却が、二つ目の出来事によって、幻想的になされる。

 新聞記者として社会に出てからは、他社好敵手との対決があり、終戦前後を強く生きる人々との交流がありと、前半とはまた少し違った雰囲気を味わえる。「明日は檜になろうと志す翌檜(あすなろ)たち」──これは最初から度々登場し、表題にもなっている言葉だが──のさまざまな姿が、後半にかけてより強く現れる。

 鮎太の周りには「明日の檜」たる、可能性に満ち向上心を備えた者たちが多く存在する。そんな中で、鮎太だけはいつまでも翌檜になれないでいる。少なくとも、鮎太は自分自身にその力がないと信じ込んでいる。神童と呼ばれた幼少期、なまじ一等というものを知っていたがゆえの、上には上がいるという諦めと劣等感。その卑屈さが根底にある分、整然とした文章の中にも、共感を伴う生身の人間の温かみが感じられるのだ。

 作者ほどの表現力は当然ないにしろ、ある年齢になってふと「自分史」というものを振り返ったとき、いろいろの記憶の断片は、この作品の各章のようにして思い出されるのではないかと思う。あのとき、周りにはこんなすごい奴がいた。彼は、彼女は、あの日こんなことを言っていた。完全に独立に思われる記憶のかけらは、例えば翌檜になれない鮎太の劣等感のように、自分の核となる性質や思想でひとつなぎとなって、「物語」の形を成すのだろう。いつか自分自身の物語ができるまで、この本を拠り所としたい。