ライ麦畑で叫ばせて

日常/数理/旅や触れた作品の留書/思考の道草 などについて書いています。

よくあれという思いやり草の花

 

 改札を出ると、まだ朝早いというのにカレーの匂いがした。食べ物の良い匂いがすればその出どころを探るというのは、人間に備わる本能ではなかろうか。結局のところ、その主は少し前をゆくサラリーマンの食べる「カレーまん」で、合点がいったのと同時に、何故かうら寂しく、残念な気持ちになった。

 

 ブログを書けと誘ってくれた友人がいる(よかれと思って大惨事)。今夏、彼のブログが記念すべき百記事目を迎えた(大人気ブロガーにあれこれ聞いてみた!)。実に喜ばしいことである。たかが数、されど数である。加工されていない生のデータとしての「数」は、最も客観的な指標である。ひとまとまりの文章が百存在する。これは揺るぎのない事実で、すごいことである。

「継続は力なり」というのは続けることの重要性を端的に述べた言葉だ。効率化が重要視される昨今ではそれに否定的な意見も散見されるが、今あえて声を大にして言いたい。「継続は力なり」である。これまでの人生において、無駄に思えることをくたびれるほどしてきたが、本当に無駄だったと思い返すことは一つもない。なぜなら、本当に無駄なことは完全に忘れてしまうからである。これは詭弁だろうか。効率など糞食らえである。最後に残るものがある。それで良いではないか。

 一人の人間の、思想のひとまとまりが百個ある。形として残っている。それだけで価値のあることである。しかも、彼の作品は、「無駄」などというレッテルとは程遠い、一定以上の質を保ったものたちである。これはもう、祝福するにやぶさかでない。

 私が彼より得意なことがあるとすれば、それは物事の分析だろうと思う。したがって、ここでは彼の記事を無作為にいくつか抽出し、それらを徹底分析することで、祝福に代えたい。無作為で良いのか? 良いのである。なぜなら、彼の記事はすべて素晴らしいからだ。

 なお、無作為抽出には一般的なサイコロアプリを使用した。まず、サイコロを一回振り、次に振るサイコロの個数を定める。そして、それらサイコロの出目の合計で分析する記事を決定する。以降は、同じ作業を繰り返し、出目を前までの決定値に加算していき、合計が100を超えるまで記事の抽出と分析を続ける。

 

1回目:サイコロの個数5、出目15 → 15記事目

da-shinta.hatenablog.com

 急性胃腸炎で弱った彼の妄想癖が過ぎた話だ。まず、病で心身ともにやられた彼は、心が乙女になった。そして、その心は甘く優しいポカリスエット君と弟のイオンウォーター君との間で揺れ動く。

 彼、もとい彼女は、ポカリにもイオンにも一通り抱かれる(節操のない)。若い男女の一夜を経て、彼女は一体どちらをパートナーに選ぶのか!?

 これに関しては元ネタがあるものの、彼のこの類の、少しふざけた、憑依型の文章はとても好きである。擬人化の走りじゃないかな? あと、彼の母親がアクエリアスを「アック」と呼ぶらしい。オモロ。

 

2回目:サイコロの個数4、出目17 → 32記事目

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 彼の本と本棚の紹介である。記事は本棚の紹介から始まるが、電車で読んでいて、笑いをこらえるのに腹に力が入って、何度か屁が出そうになった。笑いの基本であるリフレインボケを巧みに利用し、アクセントになる憎らしさがふんだんに散りばめられている。素晴らしい。

 しかし、後半の本の紹介になると、ふざけきれていない。紹介する本への愛が、著者たちへの敬意が滲み出てしまっている。だが、それが良い。単純なリフレインのコントだけでなく、正統派しゃべくり漫才もできるんだぞ、と彼はいっている。一つの記事で少しずつテイストが変わっていく。味変の走りじゃないかな?

 

3回目:サイコロの個数6、出目25 → 57記事目

da-shinta.hatenablog.com

「読まれたい」という欲求の肥大と、昨今人気のキーワードやコンテンツへの皮肉がこれでもかというほど盛り込まれた一作。不平不満が活力や原動力になるとはよくいったものだと感心する。

 結びの「目的が手段になる」という言葉をみると、私も自戒せねばとつくづく思う。文章に乗せた考え、思想に触れてもらって、その上でわかる人にはわかってほしいというのが本当なのに、わかってほしい、いや、わかったふりでも良いからとにかく触れまくってほしいと成り下がってしまうことが、我々にはままある。

 

4回目:サイコロの個数2、出目9 → 66記事目

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 表題の上中下の三部作のうち、「下」が抽出された。シリアスでいて整然とした雰囲気を貫き通した、後味は決して良くないドキュメンタリー形式をとった作品だ。

 ブログを分析することにして、この記事が「作為的」に思い浮かんだのは事実だ。それくらいのインパクトがあった。だが、分析に困るので、できれば抽出されないで欲しいと思っていた。だが、無作為に、客観的に選ばれたものを拒むことは、科学者としてできない。

 当事者である彼の心境は計り知れないのだが、「過去の出来事に対して同じ熱量で感情を抱き続けることができない」と作中で言っているように、彼自身はいたって平然と事実を書き記している。それがこの作品の冷徹さを増している。やられたこともやったこともえぐみと激しさを持ち合わせているはずなのに、全く熱がない。すっかり骸になってしまったようなのだ。

「人は自らの不道徳に復讐される」

 この言葉が、彼の経験に読者の身をぐっと近づけ、読者は心臓を掴まれ、嫌な冷や汗をかくのだ。

 

5回目:サイコロの個数4、出目16 → 82記事目

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 彼が私たちの結婚式に臨むにあたって記した祝いの文だ。情緒的・感性的な文章の多い彼だが、この文章の結論ははっきりしていて、記事の序盤にある「お前らの結婚式を一番楽しみにしているのは確実に俺だ」である。この潔い断定が、私と妻にはとても刺さる。

 儀式という非日常を考えたとき、思い浮かぶのはゲームをしながら酒を飲んだ日常だった。そして、非日常からも日常からも乖離した位置に「楽しみ」という感情が鎮座する。我々の門出を楽しみだと思ってくれる喜びは、筆舌に尽くし難いものである。

 

6回目:サイコロの個数2、出目8 → 90記事目

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 彼の好きな音楽を貼り付け、彼のセンスの良さをただひけらかすだけの時間。「最近繰り返しのある音楽が好きになってきた」と語っているが、君、最近どころではなく、結構序盤から繰り返し好きだったよ? リフレインネタとか多かったし。リフレインの走りじゃないかな?

 先日彼と飲んだときは、二人して最近よく聞いている音楽を流しあって、「これはカッコいいな」「今風だね」「最高だ!」「二人の出会いに乾杯!」「愛してる!」とイチャイチャしていた。とても楽しかった。

 

 この後、5個のサイコロを振って14の目が出て、合計が100を超えたため、分析は終了とした。

 さて、今回分析した彼のブログのタイトルを『よかれと思って大惨事』という。このタイトルと、彼の記事全体が内包するのは、「優しさ」、「怯え」、そして「自己肯定」だと私は考える。

「よかれ」とは、「よくあれ」という意味である。これは人への優しさがなければ口にできない言葉だ。だが、残念なことに、それはほとんどの場合、良い方向には向かわない。少なくとも彼はそう思っている。それが彼の言うところの「大惨事」であり、そして、「ひょっとしたら次も上手くいかないかもしれない」という怯えを、このブログは常にはらんでいる。

 一方で、彼の根底には書くことによる自己肯定感があって(これは、多くの物書きたちとの共通点であると私は理解する)、ときにふざけ、ときに真面目に、彼自身の豊かすぎる感性を、自分の言葉で情緒的に表現し続ける。よかれと思ってやっているんですよ。わかってください。そうやって恐る恐る、惨事とも思える自らの歴史思想を肯定している。

 今回の記事の表題『よくあれという思いやり草の花』は、彼に送る一句である。秋に花を咲かせる名も知らぬ草たちは、彼が思いやりをもって接する人々であり、彼のブログの読者たちであり、彼自身でもある。思いやりは失敗することがほとんどだ。だが、継続は絶対的に意味のあるものである。「よくあれ」という思いは、人知れず、ささやかだが、儚く美しい響きをもって、誰かの元に必ず届いているからだ。

 この記事もそろそろ終わりに近づいてきたが、勘のいい人は、冒頭の一段落がこの分析とどう繋がってくるのかと気になっているはずだ。結論として、冒頭は、含意はあるが全体との大きな繋がりはない。だが、こういった日常の、一見無意味とも思える気付きを文章として残すことは、決して無駄ではなく、その継続が人間の日々を「よく」して、いつか何ものかとなって、人の心に残るのだと信じている。