ライ麦畑で叫ばせて

日常/数理/旅や触れた作品の留書/思考の道草 などについて書いています。

三島くん

 

 学生時代に帰省した折、両親や弟たちは出払って、特段することがなくなったので、居間で本を読んでいた。

 しばらくすると祖母が「お茶でも飲むか」と声をかけてきた。首肯してありがたくいただくことにする。

 祖母は茶をすする私をみて、満足げな笑みを浮かべた。そして、視線は手元の本へ移った。開いて伏せたままの文庫本を指して「何読んでんだ」と問うてきた。

潮騒』だったか『仮面の告白』だったか、なんだったかは忘れてしまったが、表紙を見せながら表題を口誦した。

「ほう」祖母は自分から訊いたのに興味のない返事で、些か拍子抜けする。知らない本だったのだろう。

 というか、祖母が知っている本とはなんだろう。祖母が本を読んでいる姿など見たことはないし、「ジェネレーションギャップ」という言葉が軽々しく感じるほど、祖母と私は年齢が離れすぎている。

三島由紀夫だよ」いくら歳が違うからって、この人のことはさすがに知っているだろう。そんな軽い気持ちで、著者の名前を添えてみた。

「おう、三島くんか」

 祖母は納得したように歯切れ良くそう返事すると、それでもう自室へと入っていった。

 君付けで呼ぶなんて、祖母は三島由紀夫と知り合いだったのか? そんなありもしない空想を経由して、祖母の先の呼び方と、普段私が君付けをするときの共通項を見出した。

 祖母の呼び方は、私が同年代の著名人を呼ぶのに似ていた。マー君とか、大谷君とか、私は野球選手が多いだろうか。

 あとで調べてみると、祖母は三島由紀夫と同じ年の生まれだった。祖母と三島が同い年。口にするとなんだか可笑しい。

 三島氏が残した作品の数々と違わず、私は三島由紀夫を一つの物語としてしか知らなかった。だが祖母は、三島由紀夫と同じ時代を生きた人間だったのだ。

 あの日、祖母が三島由紀夫を「三島くん」と呼んだ。ただそれだけのことが、今思い出しても、とても不思議な感じがする。その祖母の一言が、尊く、誇らしく思えるのだ。

 

 秋彼岸、妻の実家には仏壇に手を合わせにくる人がちらほらとある。私の実家には正月、お盆と帰れていない。

 ばあちゃん、子どもが生まれたよ。祖母に報告してやりたい。私も手を合わせに、実家に帰りたい。彼女はひ孫に、どんな話を聴かせていただろう。

 近所の公園では、子供たちが声を上げて遊んでいる。すべり台を降りた先には、曼珠沙華が綺麗に咲いている。