ライ麦畑で叫ばせて

日常/数理/旅や触れた作品の留書/思考の道草 などについて書いています。

感想22『人間失格』

 

38. 太宰治人間失格』(角川文庫)

再読したい度:☆☆☆★★

 言わずと知れた太宰治の代表作。再読シリーズだが、十数年前の私には理解力がなく、読むのを途中でやめたかもれないので、ほとんど初読である。太宰の入水自殺の6日後、遺体の上がった6月19日を「桜桃忌(くしくも太宰の誕生日である。夏の季語)」と呼ぶ所以となった作品『桜桃』も収録されている。

 読んだ印象は、暗い。言いたいこと、行動の意味はわかるが、全体の雰囲気が暗すぎる。これぞ真骨頂、と言われればそうなのかもしれないが。

 著者にはもしかしたら、書くことによる自己肯定感があったのかもしれないと思う。ただひたすらに卑屈なようで、実は書くことによって救われている。著者は、文学として明に表現することによって、自らの生い立ち、思考、脆さ、弱さを、あたかも当然の正しいことのように定義し、肯定しようとした。

 著者はまた、個人の消極的な無意識を言葉によって顕わにし、読み手の「意識」のもとに引きずり出すことに成功した。それによって、読み手は著者の思考を自らの不幸せに投影し、虚像を増大させながら、それに陶酔する。その影響の大きさたるや、読み手が「弱って」いるときなどは、そのネガティヴは否応なく自己を構成する一片となり、あるいは自らを主人公とすっかり同一視してしまうほどに、欺きを帯びて痛烈に受け入れられる。

 人間に怯え、自分という存在を偽り続けるが故に、望まずとも人たらしとなり、楽しむことを知らずに遊び、酒に溺れ、身体を壊し、心を病み、病は自らだけでなく、周囲をも巻き込み蝕んでいき、やがて社会から切り離された生活を余儀なくされる。それを著者は『人間失格』と表現したのである。何をもって人間として失格かという問題もあるが、私は失格という判断を下すのが自分か、他人か、の違いが気になった。

 自ら失格と思っている分には、むしろ健全なのではないか。合格と思って自信ありげに生きている人の方が、私には怖いのである。反対に、多くの他人に失格の烙印を押されたのなら、それは真に失格に近いのではないか。初めはそう考えたのだ。

 作品の中の彼(ほどんど著者自身とみなしているが)は、自らに人間失格という判断をくだし、さらには他人をして人間がああなってはもうお終いと言わしめた。だが、彼はそうなってなお他人に愛されていた。彼を悪く言うものはいなかったのだ。それは、この作品が今もなお多くの人に読まれ、受け入れられているのに似ている。人間の脆さ、弱さを巧みに描き出すことで、「失格」である人間がかえって人間らしく感じ、共感をもって人の心に突き刺さるのだ。そういった意味では、他人の判定は必ずしも致命的ではない。

 一方で、たとえ他人の目に慈悲があったとしても、彼にとって自分自身は既に人間失格であり、そう言った意味では、自意識の中での審判が、最後には何よりも重いように思われる。社会的人間としての失格は他者が決めるが、主体的な一個人としての失格は、他ならぬ自分が決めるのかもしれない。