ライ麦畑で叫ばせて

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感想21『科学と宗教』

 

37. Thomas Dixon(著) 中村圭志(訳)『科学と宗教』(丸善出版

再読したい度:☆☆★★★

 学生時代、修士から博士課程にかけて、専門の研究に加えて、とあるプログラムに所属して副専攻のような形式で学んでいた。その関係で、科学と社会といった類の話題に元々興味があったので、図書館で見かけたこの本を手にしたのも意外なことではない。

 科学と宗教と聞いて私が最初に思いついたのは「神はサイコロを振らない」というアインシュタイン量子力学に関する言葉だが(もちろん本書にも出てきた)、友人は「科学と宗教なんて同じようなもんだからな」と吐き捨てるように言っていた。本を読み終えて思う。彼の言葉はなかなか的を得ていると。以下では、次段落で本書の私なりの要約を(一言要約を各節の最後に【】内に示す)、そして第三段落で自分自身の思うところを書きたいと思う。

 

 本書の目的は、科学と宗教の両立可能性について論じることだ。科学的思考と宗教的思考とはどんなものか。例えば、夜空を見上げたとき、宇宙に関する物理法則を思い浮かべるのはおそらく専門家くらいのものだろう。星空をみて、宇宙の美しさと壮大さを思う。これは、ある意味宗教的行為といえる。個人の精神から政治、社会に至るまで、思想の程度の違いはあれど、あらゆるところで二者のせめぎ合いは起こっている。【科学と宗教の両立・対立】

 この主題でまず論じられることが多いのは、ガリレオの地動説に関わる問題だ。地球が世界の中心という天動説の考えが主流だった中、ガリレオは地球が太陽の周りを回るという地動説を主張した。ここで間違ってはならないのは、これが「観察に基づく科学vs権威を振りかかざすキリスト教」という構図ではないことだ。正確には教会内の、「自然と聖書が矛盾するときの見解の争い」なのである。教会の中でも、聖書こそが知識の全てだという天地創造派や、聖書と自然の調和を探る派閥(ガリレオはここに入る)など、様々な見解があった。だが、「目に見えるものを超えて、見えないものを見ようとする」という理念は、科学と宗教である意味共通なのである。【科学的・宗教的立場】

 非科学的と思われる現象が起こったとき、人はそれを神の為す「奇跡」だという。だが、実はそれらにもすぐに科学的説明がなされる。「石像がミルクを飲んだ」という超常現象が騒ぎになったときも、それは毛細管現象による液体の移動だと、のちに説明されている。ここで問題にされるのは、「奇跡の貧弱性」だ。奇跡は、なぜ奇跡と呼ばれるほど少ないのか? 既存の知識と現実とのギャップにだけ、神を見出すことは正しいのか。逆に、全く奇跡が起こらないということがないのはなぜか。もっと根本には、神は、奇跡による救いを起こさなければならない事態を、なぜ未然に防がないのか。神の行為は、不行為と同じくらい、説明困難なのである。【神の行為か科学か】

 ダーウィンの進化論に対する宗教的反響も大きかった。まず、生物に関する見解として、「全ての生物は、今のままのかたちで、神によって配置された」という意見と、「発生した単純な構造の生物が、単一の梯子を登るように進化して、今の生物がある」という意見の対立があった。前者が宗教的、後者が科学的にみえるが、どちらにも問題があった。前者は、生命誕生の一瞬しか、神が介入していない。そして後者は、ガラパゴス諸島における観察で、同種の生物でも島ごとに特徴が異なることから否定された。ダーウィンは、単純な構造の生物が、家系図状に広がって進化していき、そのうち環境に適応できて生き残ったものが今の生態系をなしていると主張した。神は「単純な構造の生物」に命を吹き込んでいるのだから、神を否定してはいない。ただ、「人類と野蛮な生物たちの境界がなくなった」ということが、宗教的問題となった。【進化論への宗教的反発】

 宇宙や生命は知的存在によって「設計」されたとするインテリジェント・デザイン(ID)という考え方がある。進化論に関する学校での授業を制限するなど、聖書的な反進化論関連の法律が適用されていたアメリカだったが、進化論の科学的正しさが言われるようになり、九十年代はじめにはこれら法律はことごとく違憲とされた。しかし実際には、50パーセント程度の人が未だに、人類はある時点で現在ある通りの姿で創造されたと信じている。このことに目をつけ、そういった創造論者を引き込もうと、宗教とは切り離した形にして、ID運動というものが活発化した。しかしながら、「IDは一種の科学と寛容に認めたとしても、これは恐ろしく曖昧で出来の悪い類の科学だ」と本書の著者は批判している。【IDという”科学”】

 宗教信者は、人間の意識、道徳、さらには宗教それ自体すらも科学的に説明できるという思想に対抗する。一方で科学者は、脳と宗教的体験の研究を行っている。その結果、神を信じる瞬間に、脳の複数部分が活性化することが明らかになった。この意味について、宗教的には二つの捉え方があって、一つは「神は心の虚構ではないことが証明された」という歓迎的なもの、もう一つは「脳の作用によって説明できてしまう場合と、それでも説明できない非科学的な場合がある」と超常的性質を残したいものだ。「二元論」では、「精神」を「脳」の一機能と捉えず、「精神」と「脳」は別にあり、互いに相互作用していると考える。これにより信仰という精神活動の神秘性が保たれる。【宗教を科学する】

 利他的行動は自然界では珍しくなく、昆虫や動物にとっては集団を守るための自然な行動である。道徳的善と利他的行動はイコールではないが、人間はもっと動物のように生きるべきという意見や、それに対して人間が動物に近づくなどあってはならないという意見もある。これは自己犠牲の精神に関する道徳的規範の例だが、宗教と科学はともに、自然や社会の事実や人間性から、何か指標を引き出して、自らの試みを正当化しようとする。そういった意味で、科学と宗教の双方が繁栄や鼓舞、困惑、抑制などの一基準隣り続ける可能性は十分にある。人によっては、どちらかが、またはどちらも消えるようにと願っているかもしれない。だが、どちらか一つが残された世界とはどんなものか、よく考える必要がある。【規範としての科学と宗教】

 

 被災後、葬儀を行うこともできない状況が続いた中で、宗派はもとより宗教の違いを超えて、聖職者(僧侶、神職、神父など)に祈りを捧げてもらっただけで、多くの遺族が救われたという話を思い出す。科学的な事実をいくら伝えたところで、遺族は救われない。遺族が欲しいのは、成仏しましたよ、という一言だけなのだ。また、科学的根拠はなくても、その方角はよろしくないとか、その名前は画数がよくないとか言われると気持ち悪いし、逆であれば安心できるものである。これらの事象は、科学ではどうしようもない。

 一方で、水害から神社だけが守られたと神秘的に語られることがあるが、これは経験から導き出された安全地帯に神社が建てられているからで、災害時には神社に向かえといわれるのにも科学的根拠がある。エルニーニョ現象の話も科学と信仰が絡んでいる。エルニーニョ現象とは、地球規模の気候変動によって周期的に起こるペルー沖の高水温化現象だ。この高温化は数年に一度起こり、海況の変化によってカタクチイワシが獲れなくなってしまうため、現地の漁師たちに影響を与える。漁師たちは、この現象はクリスマスの時期に起こることを経験上知っていて、El Niño(スペイン語で男の子、すなわちイエス・キリストの意味)と呼び、キリストが休暇を運んできたといって休漁する。この現象も、いまでは科学的説明がなされ、今もなお主要な研究対象の一つとなっている。ちなみに、同海域の低温化現象は単純に対義語としてラニーニャ(La Niña、女の子)と後に呼ばれるようになった。

 本書著者が言うように、科学と宗教にはそれぞれの役割があって、どちらも必要だと思う。みえないもの、わからないことを説明あるいは解釈しようとする類似した性質のせいで、双方の対立を余儀なくされる場面もあるだろう。また、その説明・解釈の試みの延長として、一つのことに対して双方が違った規範を示すこともあるはずだ。一例をあげるなら、災害直後の行動に関して。道徳的には、一人で避難が難しそうな人を見かけたら手助けをして共助を、というところかもしれないが、科学的には、まずは自助(自分の命を守る行動)が最優先である。こうしたとき、どちらの規範に則るかは、結局のところ、個人の判断だ。事象や状況によって、どちらに重きを置くかが変わっても良いと思う。信仰とは、科学では解明できない部分が大いにあるそうだ。神を信じる瞬間、すなわち回心の瞬間の心情は、本人も説明できないことが多いと言う。だから、説明できなくても良い。あまりに極端な盲信はいけないが、生活や判断の拠り所とするのに、科学も宗教も、なくてはならない存在だ。