ライ麦畑で叫ばせて

日常/数理/旅や触れた作品の留書/思考の道草 などについて書いています。

たとえばシャトルの落ちる速さで

 

 最近、バドミントンに力が入っている。職場のバドミントンチームのリーダーがやる気で、週一回は仕事終わりに借りた体育館で打ち込んでいる。

 部活でやっていた高校時代と比較して、当然ながら練習量は劇的に少なく、また体力も落ちたのだが、ひょっとしたらあの頃の自分よりも今の方が強いかもしれない。スマッシュの速度ももちろん落ちただろう。だが、それゆえに小技に頼らざるを得なくなり、そうすると戦況をよく見て、相手が嫌がるところを狙うようになる。高校時代もこうやってプレイすればよかったと悔やんでいる。気づくのが遅かった。

 小・中・高・大と振り返ってみると、部活に限らず、高校時代そのものの記憶が一番ない。あの頃は何にも余裕がなかった。プライドはあるが傷付きたくはない。周りの目ばかり気にしていたくせに、何も周りをみていなかった。何もみようとしないから、みえない何かにずっと追われて急いでいた。自分は、周りとどこかずれていた。そのことが少しでもわかっていれば、あるいは「高校時代」というものを楽しめたかもしれない。だが、悔やんでも、懐かしんでも、時間は戻せない。

 

  さて、ネット際の攻防や、強打すると見せかけてネット近くに落とすドロップショット。それらが決まるとき、シャトルは当然、スマッシュと比べてゆっくりと落ちていく。強打でバシッと決まる爽快感も良いが、技巧的に得点したときの、思わずニヤリとする感じもとても良い。体躯の大きくない私なので、体力低下に伴って、これからますます技に頼っていくことになるだろう。ゆっくりと落ちていくシャトル。相手のコートに落ちるのか、それとも追いつかれてまだラリーが続くのか。シャトルの動きに合わせて、スローモーションになるような、静かに心躍る感覚がある。

  先日、体育館利用の残り時間がわずかとなり、早めに片付けて撤収してもいいか、という雰囲気になった。感染防止対策によって利用制限が厳しい今だからこそ、貴重な運動の時間を無駄にしたくないという思いがあった私は、「まだできそうですので、もう一試合しましょう」と提案した。参加者は私の意見に同調してくれ、最後の試合をすることとなった。

 しかし、少し試合が進んだとき、参加者の一人が私に向かっていった。「無理してやっても、怪我をするよ。気をつけないと」と。皆にも疲れが見えていたので、彼の言い分もわかる。だが、それを試合の途中にいうか。その言葉を受けた瞬間から、すっかり体が動かなくなった。力を出す気がなくなった。自分のコートにばかり落ちるシャトル。その人の発言で、通常の約半分である11点先取の短いゲームに切り替えたのだが、私にとっては、その日最も長く感じた試合であった。

 

『熱いストーブに手をつけたままの1分間は1時間にも感じられるが、可愛い女の子といる1時間はたったの1分間に思われる』これは特殊相対性理論の本質である「時間の進み方は絶対的ではなく、相対的に変化する」ことをたとえたアインシュタインの言葉だ。物理的な話は置いておくが、辛く退屈な時間は長く、楽しい喜びの時間は短く感じることを、うまく言い表していると思う。

 「気をつけないと」と注意されたあとの試合が長く感じた理由はわかる。やる気があったところに水を差されて、楽しくなくなってしまったからだ。そのせいで、全く集中力を失っていた。苦痛な時間だった。

 では、得点の間際、ゆっくりとシャトルが落ちるまでを長く感じるのは、一体どんな理由からだろうか。試合が楽しくなかったわけでも、集中していなかったわけでもない。ということは、「楽しいか楽しくないか」とは、別の尺度があるはずだ。

 喜びに期待し、そのために集中する。その時間は長いのではないか。シャトルが相手のコートに落ちる期待と、ラリーが続くかもしれない緊張感。ほんの少し未来の喜びを待ちわびる、集中力が研ぎ澄まされたその瞬間は、1秒の長さが変わる。

 時間の進み方は絶対的ではなく、相対的である。アインシュタインのいうことは、やはり物理的にも心理的にも正しかった。望んでも、過去に戻ることは決してないが、時間は速くなったりゆっくりになったり、速度を変えて前に進み続ける。