ライ麦畑で叫ばせて

日常/数理/旅や触れた作品の留書/思考の道草 などについて書いています。

さよならは難しい

 

 私は物持ちがいい。エコだとかSDGsだとか流行りのものではなく、私に備わる根深い性質で、周囲に怖がられるくらいに、気づけばずっと同じものを使っている。

 例えば、小物を入れて持ち歩いている巾着袋。これは私が幼稚園に通っていたとき、弁当入れに使っていたものだ。小・中・高と続けて弁当を入れて使い、そして大学進学で実家を離れるときに、一度この巾着とも別れてしまった。しかし、何度目の帰省だったか、昼前の高速バスに乗って大学に戻る際、バスで食っていけ、と母がくれたおにぎりが、その巾着に入れられていた。感動の再会、とまではいかないが、お、懐かしい、くらいには思ったと記憶している。それから、なんとなく携帯の充電器や、薬や、リップクリームなんかをまとめておくのに使うようになって、そのまま今に至っている。

 共にいた年月にして二十数年。物理的に近くにいた時間は、下手をすると家族よりも長いのではないか。我ながらゾッとする。初めは綺麗なライムグリーンだったのだが、ずっと持ち歩いて何度も洗い、今ではほとんど白色の袋である。

 この巾着や、財布や、文具なんかを入れ、大学に通うのに使っていたリュック。ポケットの位置や大きさもちょうどよく気に入っていて、就職してからも休日にはよく使っていた。だが、妻に「さすがにもうないよ。歳を考えなさい。ダサいよ」といわれ、「ダサいのか!」と寝耳に水だった。「これってダサいのかぁ」と泣く泣く捨てた。

 浪費家か倹約家かと問われれば後者だが、ケチでケチで、というほどではないと思う。「もったいない」という精神は確かにあるが、何でも大事に使わないと、という徹底したポリシーがあるわけではない。ただ単に、捨てどきがわからないのだ。

 機能が保てていれば良い。これが私の導き出した結論である。寝るときのシャツなんか、穴があいて、袖がボロボロになっていても着ている。寝巻きに求めるのは防寒や吸水。寒さをしのげないほどの穴があき、汗を吸わないくらい八つ裂きにならない限り、捨てなくてもよい。反対に、靴下は穴があいたら使わない。外でみられたら恥ずかしいのもあるが、薄くなった踵のところなんか、フローリングを歩くとひんやり冷たい。靴下として機能していないのでダメだ。

 機能が保てていれば、巾着もリュックも、基本的に破れるまで使えるのだ。リュックは外見として汚れたら代えなければならないが、巾着なんか外に出して見られることはほとんどないので、色あせていたって何ら問題ない。

 身に着けるものの中で、私が唯一、人より多く持っているかもしれないものは、靴だ。これはお洒落のためではなくて、靴底が削れていくのが嫌なのだ。すり減った靴底で濡れた床で滑ったら嫌だし、雨が染みてきたりしたら、もうそれは靴ではない。歩き方の癖のせいだろう、踵が削れやすいので、何足も並行して履いて負担を分散し、削れてしまったらこまめに買い替えている。

 出会ったときから作られていく関係性は、ものに確かな愛着を生む。ものに対しては機能という冷めた指標があるのも事実だが、やはり慣れ親しんだものとの別れは切ない。友人のある一節に図らずも応えるような締めくくりとなるが(染み - よかれと思って大惨事)、服や日用品のものでさえ、さよならは難しい。

 

*ふと気付いたのだが、職場で使っているハサミも幼稚園のお道具箱に入っていたものでした。平仮名で書いてある名前がまだ読み取れる。恐ろしや! 2020.07.20追記