ライ麦畑で叫ばせて

日常/数理/旅や触れた作品の留書/思考の道草 などについて書いています。

ゴルフはできないが、練習場は嫌いじゃない

 

 ゴルフをほとんどやったことがない。コースに出たことはもちろんないし、ボールをまともに前に飛ばせるかも怪しい。だが、妻と友人と正月のテレビ特番を眺めていて、ふと、ゴルフには何故かあたたかい印象があることに気がついた。

 ゴルフは大人のスポーツという印象がある。いや、会社員という方が的確かもしれない。頭に「接待」なる言葉がつくのを耳にするからだろう。上司や取引先との付き合いには縁遠いためか、このスポーツも近寄り難い存在に思える。堅物ふうの大人が仏頂面でクラブを振り、ときにぶつくさと呟き、ときに講釈を垂れる。うむ、想像に難くない。

 高校生の頃、ゴルフが上手いという理由で「ゴルファー」と呼ばれる友人がいた。これまで出会った人物の中で、得意な競技がニックネームになったのは彼だけだったと思う。野球がどんなに上手くても「ベースボーラー」と呼ばれる奴はいなかったし、泳ぐのが速いがゆえに「スイマー」が通り名になった人にも会わなかった。ゴルフには、ただ大人っぽいだけでなく、どこか高貴な雰囲気がある。だから、それが上手い人には特別な称号が与えられるのかもしれない。

 庶民の話に戻してみよう。頭に「接待」がつくとどうか。途端に緩くなる感が否めない。相手をおだててもてはやし、「ナイッショー!」と手を叩くおじさん達が目に浮かぶ。スコアより、もっと大事な何かが水面下に潜んでいる。より俗人に近いゴルフ。締まりがなくなったことは確かだが、初めに感じた「あたたかい印象」とはまた違う。

 ゴルフは大人のスポーツという印象がある。もう一度ここから始めてみよう。サラリーマンの父も例外ではなく、私が物心ついた頃には既にゴルフをやっていた。おそらく平均よりも熱心なほうで、休日となると朝から打ちっぱなしの練習場に通っていた。そしてときどき、私もそこに連れられていった記憶がある。

 いうまでもなく俗人寄りである父の練習風景。しかし、それが緩かったかというと、そうではないのだ。一球に集中し、黙々と白球を飛ばす父。ひたむきなその姿勢には、熱意と向上心が見えた。

 練習場には、同じ見た目の打席がひたすら並んでいる。そして目の前には、だだっ広い天然芝のフェアウェイだけ。そこは明らかにひらけた場所だったが、父はどこか孤独にみえた。練習とはこうも寂しいものなのか。自己鍛錬。自分との対話。いつも馬鹿笑いしている父が、そのときは真剣だった。大人だった。それはれっきとした紳士のすがただった。

 私は父のその光景を、ベンチに腰掛け、ただずっと眺めていた。道すがら買ったおにぎりとスイーツを食べながら見た。おにぎりの具はシーチキンか鮭、スイーツは焼きプリンが多かった。父はコーラを、私はファンタを飲んだ。稀に室内施設でパター練習を一緒にしたこともあったが、私は父のすがたを見ている方が好きだった。

 ボールの少し手前で軽く素振りをする。一歩前に出て、マットの感覚を確かめるように両足で小さく足踏みをする。初めは左手だけでクラブを握り、やがて右手を添える。クラブヘッドはボールの手前で静止している。膝を少し曲げた構え。クラブが大きく振り上げられる。首は下を向いたままだ。インパクト。ボールは乾いた音とともに、他のたくさんのボールの中に消えていく。父は不満げに少し首を傾げる。機械音とともに、自動装置が次のボールを狂いなくティーにセットする。

 少し離れたところから、父の繰り返しの動作を見ていた私の感情はどんなだったろう。初めは、開放的なのに孤独な、矛盾した異質な空間に身を置くことに気が引けて、恥ずかしかったように思う。だが、父の動きが、簡単な食事が、腰掛けている私の姿勢が、すぐにそれをいいようのないあたたかいものに変えた。幸福な休日の朝。なにをしているわけでもないその数時間が、どこか誇らしくもあった。練習方法の正しさや技術の良し悪しは全くわからなかったが、父はその瞬間、紛れもない紳士であり、ゴルファーの称号にふさわしかった。

 ゴルフは大人のスポーツという印象がある。自分との孤独な対話を恐れない紳士になったとき、私もゴルフができるようになるのだろうか。ようやく大人になれるのだろうか。いや、ひょっとしたら、対話の仕方はひとそれぞれで、私にとっては他のこと、例えばこんなふうに文章を書くことが、その一手段なのかもしれない。いずれにせよ、私はゴルフはできないが、練習場は嫌いじゃない。