ライ麦畑で叫ばせて

日常/数理/旅や触れた作品の留書/思考の道草 などについて書いています。

海はいさ空には歌は生まれない

 

 仕事柄、長期で航海に出ることがある。航海中は週から月の単位で陸を見ない。周りは海と空だけ。

 波風一つない水面に雲が綺麗に反射して見えたり(このような静かな海の状態を「べた凪」と呼んでいる)、珍しい鳥やイルカなんかが見えたりすると一寸盛り上がるが、平常時は大海原なんてすぐ見慣れてしまう。

 見慣れてはしまうけど、私の場合、それを見飽きることはない。風や船体が起こす波にはひとつも同じ形はなく、あるいは海全体が秩序だってうねるひとつの巨大な生き物のようで、舷側にもたれかかって、ずっと眺めていられる。

 航走中の船尾には、白い波がずっとついてまわる。推進器のプロペラが海洋表層をかき混ぜ続けるからである。白い波は筋状に残ってみえて、海面に航跡をはっきりと描いてすすむ。

 白波に押され船ゆく秋の海

そんなぱっとしない句が思い浮かんだきり、なんだかいろいろなことがどうでもよい気がしてきて、それきり推敲をやめてしまった。日常で俳句を詠むのはある種の日記のようなものである。見たり感じたりしたことの記録。だから、そこまで美しさを求めなくても良い。私は波の揺れに全幅の信頼を置き、ただ身をあずけたまま、尾を引く白波を眺め続ける。

 海の包容力は強大で、ときに猟奇的である。波のない夜の海。光沢のある黒い水面をじっと見ていると、ふとその上を歩けるような気がしてくる。舷側に足をかけ、ひょいと海に降り立ってしまいたくなる。そこに月明かりなどがあるとなお危険だ。真っ暗な平面をずっとゆくと、いずれ光に触れられるのではないかという錯覚に陥る。

 一転、早朝の穏やかな海は清々しい。大海原を知らなかった頃の記憶が曖昧だが、おそらく想像していた数倍は良い。海面が朝日を乱反射して輝く。そこには包容力と同時に威圧感がある。どうしても近づけない気がする。実際はすぐ目の前に広がっているのに。

 風を待つ眩しき秋の朝の海

こんな句にすると安っぽいのだけれど。

 さて、会議や報告会なんかのために出張するときは、当然ながら船ではなく新幹線や飛行機に乗る。新幹線では仕事が捗る。報告資料なんか、移動中に作るのが一等集中できる。切羽詰まらないとやらないのは良くない習慣だが。

 一方、飛行機では特に何もしない。船で全く酔わない特異な体質の私だが、飛行機はあまり得意ではない。小刻みな揺れ、ふわっと身体が取り残されるような落下の感覚、そういうのがダメだ。酔うわけではないけれど、精神的にやられてしまう。

 あと、飛行機の席は必ず通路側。もしトイレに立ちたくなったとき、他人の手を煩わす心配がないのと、着陸後にいち早く降りられるのが理由だ。だが、そうすると景色も見えないし、搭乗中は本当に何もすることがない。だから、搭乗前に適当に楽曲をダウンロードして、それをずっと聴くことにしている。

 空にはダウンロードした楽曲と、CAさんがくれる飲み物くらいしかない。頭の中は既存の音楽に支配される。船上のように、変化に富んだ、あるいは代わり映えのない、あの愛おしい景色はそこにない。

 洋上に歌は生まれず秋の雲

 これは船の上での一句だが、海にいたって、景色を見ながら考えて、考えて、何かを生み出そうとしても、雄大さに気圧されて、結局こんなものしか詠めない。でも、何も生まれないのだというだけの宣言でも「ある」ことと、それすらも「ない」ことは決定的に違う。

 海ではどうかわからないが、空にいても歌は生まれないと思った。もちろん、空の広がりが見渡せるパイロットや、天才的なアーティストなどは違うかもしれない。飛行機の窓際の人はどうだろう。景色をみているのかな、わからないけど。とにかく、そういった類の「ある」人たちとは別の、貧弱で矮小な、発想力の「ない」私のはなし。

 

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