ライ麦畑で叫ばせて

日常/数理/旅や触れた作品の留書/思考の道草 などについて書いています。

キウイのTVCMで泣く

 

 最近涙もろくてダメだ。狙ってくるものには斜に構えているから、お涙頂戴の映画や番組は我慢できる。しかし、こちらが身構えていないときにせめられると涙が出てしまう。

 遭難した小学生が保護されたニュースで泣き、ゲームでボム兵が爆ぜて消えたことに泣き、きれいに刈りそろえられた中央分離帯の雑草に泣く。淡々とした日常の中で、いのちの強さ儚さ、愛、誇りに触れたとき、私は泣いてしまう。

 母親が名前を叫ぶ。それに応える声がする。十二時間もの間、少年は転落したその場でじっと待っていた。さぞかし怖かったろう。動きたかったろう。しかし、彼は気持ちをぐっと堪えて、助けを信じ待っていた。親子愛と本能的ないのちの強さをそこに感じる。

 ボム兵は爆ぜることによってのみボム兵たりうる。爆発。それは彼がボム兵としての職務を全うした証である。だが、彼の爆破で粉々になった岩に対面したとき、私はそこに彼の誇りを垣間見て、いのちの儚さに泣く。気づけばマリオの表情も悲しげなのである。

 昨夕まで生い茂っていた草が、今朝には綺麗さっぱり刈られている。夏草のいのちの儚さというよりも、私はここに職人としての誇りを感じる。熱帯夜、暑くて刈り残しが出ちゃいました。そう言われても私は除草業者を責められない。だが、仕上がりは見事なものである。一夜城を見た人の驚きと感動はこんなだったに違いない。まさに天晴れである。

 

 平日の朝、出勤前に流れるテレビコマーシャルがある。

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このゼスプリのキウイのCMで、私は毎朝泣いている。この記事を書くために改めて視聴して確信した。日本国民の七割はこのCMで泣いている。なぜ涙が出てしまうのだろう。今日はそれを分析していきたい。

体にいいことするのって大事

でも走るのは疲れる

 CMはここから始まる訳だが、この二文、非の打ちどころがない。走り込みは人間のあらゆる活動の基本である。張本氏もいつも言っている。少々過度な走り込み信仰のような気もしていたが、今シーズン調子の良い楽天・涌井投手も走り込みは大事と言っているので間違いない。「体い良いこと」=「走り込み」=「大事!」である。だが、決定的な問題がある。走り込みは疲れるのである。

筋トレは運動不足の人にはキツい

険しい山では思いがけずキケンに遭うかも

足つぼマットはやっぱり痛い

 走り込みがしんどいならば、他の方法を探せば良い。だが、それもまた容易ではない。私の経験上、筋トレなんて続いて一週間だ。登山をするにも、カタチから入りたいタイプの私には道具の準備がまず関門である。仮に出発できたとして、CMのように熊に襲われたり、遭難したりするリスクは払拭できない。では足つぼマットは? 痛い。あと温泉で誰かが踏んだマットを踏むのに少し抵抗があるのは私だけか。ストレッチも毎日となると厳しい。最近は暑くて特にしんどい。サウナも無理だ。暑いから。

ストイックにやっても続かない

ヘルシーは好きなことを楽しみながら

 ここでウルっとくる。ストイックにやっても続かない。スパルタはもう古いのだ。生活リズムに合わなかったらラジオだって本番中にやめる宣言をする時代だ。令和に適した考え方、それは「好きなことを楽しみながら」である。この慈悲深さが、母のような愛が、私の琴線に触れる。

キウイ キウイ キウイを食べよう

甘くて 完熟で 栄養たっぷりで

アゲリシャス

 満を持して歌詞に登場するキウイ。キウイは食べられるために自らを売り出している。自分を殺してまわりを生かす。バント職人の、ボム兵の誇りをそこに感じる。甘くて完熟で栄養たっぷり。形容詞の嵐にいのちの強さを感じてやまない。あの刈りそろえられたような、もっさりとした皮もたくましく見えてくるではないか。いのちをいただきます。強く儚きキウイのいのちよ。アゲリシャス。これはよくわからん。アゲアゲでデリシャスということか。

キウイ キウイ キウイは最高

ヘルシーは好きなものを楽しみながら

ヘルシーは好きなものを楽しみながら

 続けて言われるともう涙を我慢できない。ヘルシーは好きなものを楽しみながら。好きなものを楽しみながら。それで良いのだ。そう自分に言い聞かせることで救われる。重苦しい朝に少しの希望の光がさす。それが一粒の涙というかたちになる。ありがとうキウイ。今日もとってもアゲリシャスだ! ちなみに、このCMをみて私はキウイを買ったことがない。本当に申し訳なく思っている。今度買わせていただきます。