ライ麦畑で叫ばせて

日常/数理/旅や触れた作品の留書/思考の道草 などについて書いています。

俳句1「五七五のリズム」

 

 俳句は「わずか十七音で作られる世界で最も小さな詩」と表現されることがある。では、世界最小といわれる俳句が、何故あらゆる情景を美しく表現できるのか。俳句の表現力を支えているのは、大きく分けて三つの約束ごとである。それは「十七音」、「季語」、「切れ」である。今回はそのうちの「十七音」についてみていきたい。

 俳句はリズムである。藤田氏の本を読む限り、彼が最も言いたかったことはこれだ。俳句は散文(定型や韻律をもたない文章)ではなく、韻文である。言いたいこと、見せたい景色があるのは大切だが、それよりもまず、リズムが良いことが最も重要なのである。五七五のリズムにのせて。これが俳句の基本であり、すべてであるといっても過言ではない。このリズムの軽視を、藤田氏は「俳句が相当ヤワになってきている」と表現している。

 美(よ)き雲に いかづちのゐる キャンプかな 山口誓子

説明のため句中に空白をいれたが、頭からそれぞれを上五(かみご)、中七(なかしち)、下五(しもご)と呼ぶ。なんとも心地よいリズムの句だ。リズムが良いか否かを判断するのに効果的なのは、発音することだ。声に出して心地よいことが大切だ。では、もう一句。

 息とめて赤子は落花(らっか)浴びてをり 加藤楸邨

声に出してみよう。 無垢な命が自然と出会うあたたかさが感じられると思う。上五「息とめて」の緊張感から、読み進めるにつれて解き放たれていくところが素晴らしいと私は思う。

 では、次の句はどうだろう。

 滝の上に水現れて落ちにけり 後藤夜半

上五が「たきのうえに」の六音だ。このようなものを字余りという。基本的に、音に多寡があればリズムが崩れてしまう。だが、これはリズムを崩しているものではなく、テクニックなのである。滝の上に「ゆっくりと」水が現れ、それが瞬時に落ちてくる流れの緩急を、上五をあえて字余りにすることで、効果的に表現しているのだ。

 鳥帰るいづこの空もさびしからむに 安住敦

こちらは下五「さびしからむに」が字余り。「さびしいだろうに──」という情感を強調し、余韻を残すためにわざと字余りにしている。

 つまり、音の多寡には明確な理由がいる。「はまらなかったからいいか」は許されない。私のような初学者は、五七五のリズムは崩さないことが大事らしい。はまらない場合は、よく考えて、おさまるようにすることだ。

 字余りとは逆に、音が足りないものは字足らずというが、ただでさえ十七音と世界最小の俳句を、さらに短くするものはあまりみない。また、上五・下五の多寡が技法として受け容れられるのに対して、中七が崩れることは俳句全体のリズムを崩す。これは破調といわれ、避けるべきことである。

 最後にもう一句だけ紹介する。

 さみだれのあまだればかり浮御堂 阿波野青畝

リズムを注視することができれば、「だ」・「だ」・「ば」・「ど」の四つの濁音が「五月雨」を感じさせるために効果的に入れられていることがわかる──らしい。ここまで高度なことは初学者の私には到底できないが、そう言われてみると、俳句の見方がまた変わる。

 近代に発展した自由律俳句は五七五のリズムに縛られないが、自由度が大きいだけに難しいものだと私は思う。ピカソは普通に絵を描けば(この表現が正しいかは置いておく)滅茶苦茶うまいのと似ているだろうか。基本のリズムを理解しないことには、自由律俳句という韻文をつくることはできないと思う。だから、まずは五七五のリズムを守りたい。

 いかがだったろう。わかりにくい部分や誤った記述は適宜修正したいと思う。次回は俳句の二つ目の約束「季語」について書く予定だ。