先月,極めて真面目な研究集会であるにも関わらず,「○○フェスタ2017」と銘打たれた,お洒落で素敵な集まりに参加してきた。
「我々の分野はこれからどうなってしまうのか」
「この厳しい状況をどう生き抜くべきか」
と,内容はなかなか深刻なものが多かったが,その中で印象深いお話があったので,ここに書き留めることとする。
中谷宇吉郎という日本の物理学者・随筆家がいるが,彼の著書の中に「比較科学論」というものがある。
A4用紙にして5~6ページくらいだろうか,短い文書なのですぐに読めるものだ。
それによれば,研究(ここでは物理学に限定せず,研究全般ということだろう)は,二つに大別されるらしい。
一つは「警視庁型」,そしてもう一つは「アマゾン型」だ。
警視庁型の研究とは,「もうすでに犯人が分かっていて,それを捕まえるのに難易があるもの」だそうだ。
もう少し補足説明すると,今日の学問には,もう原理が良くわかっているものがどの分野にも存在するだろう。それを発展させる,拡張させる,継続する,そんな研究を警視庁型と呼んでいるようだ。
「機械の仕組みはできた。組み立てもできた。あとは耐久性評価のこの表を埋めるだけだ。実験は──比較的易しそうだ」
とか,
「このガスは環境に有害だ。使用も禁止され,大気への含有量は徐々に減っているようだけ。では,最近の大気中濃度はどうだろう。観測は──なんとかできそうだ。分析は──へ,そんなに時間がかかるのか」
とかいった具合だ。
一方,アマゾン型の研究とは,「この秘境にどんな珍しい新種の生物がいるか,まだ誰も知らない」といった類のものらしい。
まだ誰もおこなったことの無いような実験をして,未開の地で観測をして,提唱されたことの無いような理論を考える。
「まだ誰も行ったことのない海底を探査してきた。恐ろしく大きなタコがいたし,なんだかようわからん黒い液体が海底から噴き出していた」
とか,
「えげつない速度でAの原子とBの原子をぶつけてみた。そしたら,未知の原子Cができた」
とかだろうか。
なお,以上の説明は私の解釈が多分に含まれており,例はすべてフィクションである。正確な内容が気になった方は原著をご覧いただきたい。
さて,どちらが世間の目を引くだろうか。
それはおそらく,アマゾン型だ。
「地道な実験を5000回しました」と言われてもその情報に恩恵を受けない人は知ったこっちゃないだろうが,「山奥で新種の恐竜の化石が見つかりました」と言われれば,皆がおっ!となるだろう。
行ってみて,やってみて,新たな発見は無いかもしれないが,そこには夢とロマンがある。
では,どちらが大事だろうか。
それは,どちらもだ。
これは原著にも書いていたが,警視庁型の研究からは,おそらく新たな大発見があることは極めて少ない。
だが,警視庁型の研究を地道に続けた先に,そこから得られた知見をもとに,全く未知の領域に踏み入れるアマゾン型の研究の突破口が開かれるのだ。
「画期的な自動観測ロボットを開発しました。とりあえず,世界に展開してみましょう!」
「おお,それは面白そうだ,いいですよ。はい,資金」
「10年経って,いろいろな新しい発見がありました!」
「うむ。でも,もう続けるのにお金はかけられないよ。おしまいね」
(それじゃあ連続モニタリングが途絶えてしまう──)
(研究が続けられないよ──)
「待ってください!ロボットを改良したら,未開の地まで行けそうなことがわかりました!だからもう少し続けさせてください!」
「ほう,それならいいですよ。でも台数は減らしてね」
「研究したいんです。それにはお金が必要なんです!」
そういったときに目をひくのはアマゾン型なのだが,そうポンポンと秘境のジャングルは出てこない。そして,研究が進んだ学問であればあるほど,それを見つけるのは難しい。でも,研究を続けるのにはアマゾン型がどうしても必要で,それには警視庁型も必要だ。
このジレンマと戦いながら,どう生き抜いていくのか。それは難しい問題だ。
それでも,私の置かれた立場上,(自分がそこへの切符を掴まないにしろ,)未開の地が現れることを切望し,必死に探し求めているし,私という一個人として,どの学問においても,未開の地がなくなってしまうことは決してないと確信している。