ライ麦畑で叫ばせて

日常・回想・妄想・数学理科・社会・思考の道草 を軸に書きます。

さらば愛しきまち

 

 もう一年と八ヶ月前のことになる。とある都市の中心部から少し離れたあるまちのあるアパートで、私は家族でない人間とのはじめての同居生活を開始した。全く喧嘩することなく、とは当然いかなかった。それでも同居人は、身勝手で怠け者の私にも愛想を尽かすことなく、ここまで共に生活してくれた。

 交通や買物の利便性に優れていたとは言い難いが、広く、綺麗で日当たりの良いそのアパートの一室が、私も同居人もとても気に入っていた。

 しかし、私の仕事の関係で、我々は三月中の遠方への引越しを余儀なくされてしまった。そしてついに昨日、後ろ髪を引かれつつもその部屋に別れを告げてきた。

 引越しの一二週間前からのろのろと準備はしていたものの、期限が迫らないと身が入らないのは何に関しても一緒なもので、結局は二三日前からばたばたと荷造りをすることになってしまった。

 直前まで忙しなかったからだろう、部屋との別れを名残惜しく思いはじめたのは本当に引越しの間際になってからだった。

 二人でせっせと準備しながら、心はいろいろに染まった。

 ものを退かしたときに現れる大きな埃に笑い、照明のカバーに入ったままの虫の死骸を恥じ、ソファの重みで剥げたフローリングのいびつを愛した。道行く少年の視線の先の少女を見つめ、近所のパン屋の新メニューに唸り、街灯の映し出す二つの影に泣いた。

 そして私はこれまでにこのまちで私の心を染めてきた全ての色に感謝した。

 形のないものに対する思考や感情を表現するのは難しくて、私は結局実体のある部屋そのものにありがとうと言うことにした。そしてすっかりものが無くなって、ひだまりだけになった部屋に寝転んで、なにものかに対する言葉にならない感情をそこに溶かした。

 そして今日、我々は次なる住まいで昨日別れたばかりの荷物を受け取った。

 愛しきまちでいろいろの光を浴びた心はいま、全ての色の光を放ちながら真っ白だ。今度のまちは、人は、部屋は、私の心をどう照らして染めるだろう。