ライ麦畑で叫ばせて

日常/数理/旅や触れた作品の留書/思考の道草 などについて書いています。

一山また一山

 

  行きずりにつと手に取りし古本に心躍らすような幸せ

 

 本業が山場を迎えつつあり、自宅に帰ったら寝るだけの生活が続く中、読書の時間がこれまでと比較して増えた。交通手段を地下鉄に替えたからだった。

 地下鉄を待つ間、乗車中、乗り継ぎの間、行き帰りのそれらの時間を合計すれば四十分程度にはなるだろうか。その時間と、週一回程度こうして記事を書いている時間が、最近の唯一の楽しみと言ってしまって良い。

 一年程前からこうして記事を書くようになって、文章を読むと「ほう、こういう描写もできるのか」とか、「うむ、筆者はこういう言い回しを使うように(あるいは使わないように)気を付けているんだろうな」とか、内容だけでなく表現までをも味わおうとするようになった。

 ああ、これまでも注意して読んでおけばよかったな。読み終えた本をコートの左ポケットから本棚に移すたび、先に収められた本たちを恨めしく思うようになった。これは真に理不尽であると同時に、おそらく永久に無くならない感情なのだろう。

 きっと、このまま本を読み続けていくと、またいつの日か「ああ、何々に気を付けて読んでいればよかったな」と後悔するときが来るに違いない。そしてその後悔は私の飽くなき探究心と向上心そのものであるから、実はそれを一等大切にしなければならない。

 

 吾(あ)の歴史思想を築く本本本一山越えてまた一山

 

 山に成るほどまだ本を読んでいないのが恥ずかしいし、その事実はすなわち上の和歌が嘘偽りであることを示している。が、いつかこうなればよいな、という願いの歌と捉えてもらえれば幸いである。今回は少々短いが、この辺で。