ライ麦畑で叫ばせて

日常/数理/旅や触れた作品の留書/思考の道草 などについて書いています。

黄昏の谷の底

 

 何故、勉強しなければいけないのか。

 我々は決められた年齢で決められた期間、決められた知識を習い、学ばなければならない。その中には、先の人生で使うとは思えないような知識や考え方も数多くあるといえる。

 そこで、一度は疑問を抱いたことがあるに違いない。我々は何故、勉強しなければいけないのか、と。

 ここで私が「違いない」と強い断定を用いたのは、世間一般にこの定説が流布しているからに過ぎない。

 逆説的に、私は上の疑問を一度も抱いたことがない。

 

 お気に入りのおもちゃが壊れた、誰かの茶碗を割ってしまった、そうして悲しくて、あるいは申し訳なくて泣いていると、父が、母が、祖母が、決まって私にかける言葉があった。

「命あるものはいつかは死ぬ、形あるものはいつかは壊れるのだ」

 捕まえた虫や、トカゲや、カエルに名前を付けて、大事に育てた末に、死んでしまった彼らを土に埋め、泣いている私にいつもかけられる言葉があった。

「命あるものはいつかは死ぬ、形あるものはいつかは壊れるのだ」

 父と母が私を驚かせようと、赤茶色のうがい薬を洗面所に吐いて、父さんが血を吐いちゃったよ、死んじゃうかもしれないよ、どうする? と私に尋ねたことがあったらしい。

 幼い私の回答が「仕方ないよ」でとても驚いて、とても悲しくなった、と事あるごとに言われたが、そんなことは全く覚えていないし、そもそも、そういう風に育てたのはあなたたちだ、と言ってやりたい。

 

 私の奥底に否応なしに育まれた無常観により、私はどうしようもないことを疑問に思うことを諦めた。仕方ないんだな、と思ようになっていた。

 私は黄昏の谷の底にある。ただでさえ薄暗い谷底の、「誰そ彼」と、顔を見ても誰だかわからないほどに日の傾いた夕暮れ時に、何か形の曖昧なものを探し求めようなんて無茶な話だ。

 何故、勉強しなければいけないのか。そう疑問を抱くのが一般的で、そしてそのほうが考える力が鍛えられるのかもしれない。疑問を抱かないのは、ただ思考を放棄しているだけなのかもしれない。

 でも、余計な気兼ねがないほうが、実は本当にすべきことを見失わずに済んでいたような気が、今はしている。

 私を黄昏の谷の底に突き落として鍛えてくれた両親や祖母には全く文句はないし、むしろこんな面倒な性格にしてくれたことを私は非常に感謝している。

 底から這い上がるつもりはない。じめじめと陰気を好む数少ない友人らと一緒で、ここはここで結構楽しいのだ。

 

*この記事のタイトルはGARNET CROWの5枚目のアルバム『THE TWILIGHT VALLEY』を参考につけさせていただきました。