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ライ麦畑で叫ばせて

日常・回想・妄想・数学理科・社会・思考の道草 を軸に書きます。特に「妄想」は別のところでしっかりカタチにするのが目標です。

病は病

日常 回想

 

かねてよりスーパー健康体と自負してきた私の身体も,加齢と不摂生から何かの危険に脅かされつつあるのかもしれない,と,最近不安に思うことが増えてきた。

 

この前,私の参加しているあるプログラムの同期達と飲む機会があった。

その中の一人が乾杯に際して「喉が腫れて病院にいったから酒を控える」と言った。

その腫れはストレスなどが原因でできる「粉瘤」というものだったらしい。同席した他の同期達が皆その病名を知っていたのに驚いた。私の常識のないところをさらしてしまったようだ。

当の彼は,乾杯こそオレンジジュースだったものの,二杯目からビールを飲んでいた。大事ではないようで安心した。

 

この町に越してきてもうすぐ8年だが,私はここで1度も病院に行ったことがない。

バイクで転倒して血だらけになった脚は消毒液をぶっかけて様子をみているうちに治った。

多少の頭痛や腹痛は忍耐だし,稀にひく風邪はのど飴で治す。

そもそも,幸いにしてインフルエンザなど諸々のウイルスに縁がないというのもあるだろうが,基本的に「病は気から」と思って気合で何とかしてきた。

 

何故こんな「我慢の男」的なSTYLEになってしまったのだろう。

振り返ると,少年野球をしていたときは,罰か何かで足がつるまで延々とグラウンドを走らされていたことがよくあったなぁ。 

中学の野球部時代もそうだった。ここらで忍耐がついたのか?

 

高校のバドミントン部時代は,「多少の風邪なんかで部活が休めるか」といってアップで山道を何キロも走って,風邪をこじらせて肺炎になったこともあった。

咳が止まらないので病院に行ったら「比較的重い肺炎です。今すぐ入院したほうが良いです」と医者にいわれたが,「いや,学校休みたくないんで…」的な自分でもよくわららない理由でそれを拒んだ。咳は我慢だ。

これは別に,「学校大好き」とか「部活大好き」とかいうことではないのだ。

「この程度で部活学校を休んではいけないのではないか」,「ただサボっているだけだと思われるのではないか」というある種の強迫観念に駆られていたがゆえである。

 

幸い身体が丈夫だったので,これまでしてきた多少の無理にも壊れることなく生きてこられた。入院も点滴も骨折も何もなしだ。

 

ここ8年病院に行っていないと前述したが,実は「歯医者」には何度かお世話になっている。病院といったのは,内科とか外科とか耳鼻科とか―,まあ,歯科以外のところである。

夜中に眠れないほどの激痛を歯の奥に感じ,次の日すぐに歯医者に行くと,「歯が根から完全に腐っています。膿が歯茎も腐らせていて,空いた穴が鼻の奥の空間まで貫通しています」という信じがたい事実を告げられた。

歯が腐った原因は不明。虫歯などではなく,「自然に歯が死んでしまうこともあるんですよ。ハハハ―」と医者は陽気に笑っていた。全然面白くないのですが。

この症状が8年間で2回,2本の歯が勝手に死んだ。

「穴が貫通するまで進行するのは珍しいんですよね。痛みとか違和感はなかったんですか?」

そんなことを何度か訊かれた。

「ええ…,何も…」

申し訳なさそうにそう答えたのを覚えている。

 

ここまでくると,忍耐がどうとか,気合でどうとかではなく,単純に身体が鈍感なだけなのではないか?と思えてくる。

病気にはかかっているがそれに気づかないだけで,本当は病院に行った方が良いことが多々あったのではなかろうか。

スーパー健康体ではなくてただのスーパーどあほうだったのかもしれない。

 

鈍感と言われればそうだ。

私は人に比べて辛い食べ物につよい。甘いのもしょっぱいのも苦いのもイケる。

劇物処理班」という異名をつけられたこともある。

ものを食べて「まずい」と思うこともない。

私の基準は「うまい」,「おいしい」,「ふつう」の3段階だ。

 

少し敏感になってみるか。

そうして自分の身体を考えてみると,最近,腹が出てきた。髪が減ってきた。腰が痛い。肩が重い。そして,なんと,少し歯が痛い。

歯は歯医者に行くとしよう。

他は「気合」だ。というのはもうやめて,原因を考えてみる。

年もあるだろうが,それは「縦軸の時間(詳細は前回の記事 時間軸の交錯 - ライ麦畑で叫ばせて をご覧いただければ幸いです)」に乗っている以上仕方がない。

となると問題は「運動不足」じゃないか?

 

この結論に至り,最近ランニングウェアを購入した。

まだ1回しか走っていないが。

 

時間軸の交錯

社会 理数

 

時間とは,物理学における互いに独立な7つの基本単位のうちの1つである。

私の携わっている地球物理学においても例外ではなく,長さ,質量,温度と併せて最もよく使われる単位のうちの一つだ。

そしてなにより,物理学に限定しなくとも,我々は今この瞬間においても,無意識に”時間”というものに関わっている訳だ。

 

先日,そんな「時間」について,少し考えさせられるきっかけに遭遇した。

 

ある有名な社会学の先生の講演を拝聴したときだ。

講演のテーマは「災害とコミュニティ」。自分の置かれた立場から,公的にも私的にもときどき考えることはあるが,それを専門的にどうのこうの―,ということはない課題だ。

そして,講演の内容。正直に言って,先生のお話の2割も理解できていないだろうと思われる。

語句や概念といった基本的なところから,議論する問題の重要性や論理展開の流れなど具体的なところまで,私の知識不足が理解を妨げたのは明白であろう。

 

そんな中,講演も後半に差し掛かった頃か。先生がこんな話を始めた。

 

「我々は不可逆的な直線運動をする『縦軸の時間』を進むと同時に,毎年回帰してくるような回転運動をする『横軸の時間』の中を廻っているのです」

 

このコトバは,「科学者や政府など」から「被災者」への情報提供・安全保障の際に問題となる,「それぞれの思いの相違」を考えるという話題の中で発せられたものだ。

この文脈でのコトバの解釈は後に回して,まずは「縦軸」・「横軸」,2つの時間の意味について考えてみる。

 

「縦軸の時間」は,話を聴いた限り,物理学や化学などの学問に留まらず,普段我々が使うような数値的,理論的な「時間」のようだ。

「時速○○ kmで□□時間走ったときに進む距離は―」なんかの問題を考えるときにも使う,おそらくほとんどの人が一般に思い浮かぶ「時間」だ。

タイムマシンのような(今のところ?)空想の乗り物が実現しない限り,その軸上での時間の行き来は不可能だ。

こちらは,理解に苦しむことはないだろう。

 

一方,「横軸の時間」というのは少し考えづらい。ヨコジクノジカンとは何だろうか?

講演中には,この「ジカン」と併せて重要そうな言葉がいくつか挙げられていた。

 

「仕事の区切り」,「行事」,「季節」,「神や仏」,「去年と同じ」,―。

 

新年になったとき,「去年の正月から一年が過ぎた」と考えるのは「縦軸の時間」に乗ったときだ。

「横軸の時間」に乗って考えたとき,いま訪れた「新年」は,昨年の今頃に円を描くように離れて姿を消して,再び我々のもとに戻って来た去年と同じ「新年」なのだそうだ。

年末の仕事を片付けて,実家に帰り,仏壇に手を合わせ,家族とワイワイ新たな年を迎え,雪を踏みしめ,友人と再会し,神社に参拝する―。

春には春の,夏には夏の,地域には地域の,自分には自分の決まり事のようなものがあって,それが脈々と繰り返されるのが,「横軸の時間」というものなのだ。

 

この結論に至るまでには,実は結構時間がかかった(「まだ良くわからん」という方,上述が結論ではありますが,もう少し説明しますので,どうか読み進めてください)。

少々変なところでつまづいてしまったからだ。

 

そのつまづきは,

「縦軸にも横軸にも時間をとるってどういうことやねん?」

という疑問にあった。

 

「縦軸」・「横軸」というのは比喩であろうというのは理解しているつもりでも,そうやって軸をとられると,どうも関数や図形を考えずにはいられない。

 

さて,そこでまず引っかかる。縦にも横にも同じ”時間”というパラメータを取るなんてことはあっただろうか?

私自身,「○○の温度の時間変化」とか「□□の各緯度における経年変化」とか,何か別のパラメータの時間変化を考えることが非常に多くて引っかかってしまったが,「反応Aの経過時間と反応Bの経過時間の関係」みたいなグラフは別の分野ならあり得なくもないような気がしないでもない。あるのかな?

こういう関係をみるのが意味のあるコトとしても,この場合の「時間」はある現象や反応などで限定された時間であるので,我々が今まさにその一部を生きている「恒久的な時間」を両軸にとるのにはまだ抵抗がある。

 

とはいっても,そんな駄々をこねくり回していても仕方がない。思い切って両軸に時間をとることを考えてみるか。

横軸には廻り戻ってくるような回転運動,縦軸には単純な直線運動―。

一次元での回転運動なんてのは,いよいよ私の想像を超えている。「横軸」は「水平方向の二軸」で勘弁してもらおう。

「縦軸」=「鉛直軸」の単調増加は簡単そうだ。

 

そんなこんなで描いてみたグラフは以下のとおりである。

 

 f:id:daikio9o2:20170201171952j:plain

 

基本的には,水平方向には円を描き,鉛直方向には単調増加させている。いわゆる螺旋階段のような形だ。

ただ,円の半径を鉛直軸依存にして,周期の異なる二つの正弦関数の足し合わせで変化させている。

色は円の大きさに関わらず一周で循環するようにした。

 

鉛直方向を時間軸(年)としてみてみる。人生50年というわけだ(ちょっと長い?)。

この方向にみれば,1年過ぎれば1目盛り進む,不可逆の直線運動だ。

 

水平方向は色を時間(月)としてみる。

赤色から始まり,寒色系へと移り変わり,再び赤色へと廻っている。始点の赤色が自分の誕生日と思えば良いか。

その一周は,環境や思考の変化,特別な試練やイベントの有無などで感覚的長さは異なるかもしれないが,結局,毎年同じ「時間」が廻ってくる。

 

おお,先生のおっしゃっていたコトバと合致しているかはよくわからんが,一応カタチにはなった。満足だ。

 

「縦軸の時間」・「横軸の時間」の交錯の実態をわかった気になったところで,

”「科学者や政府など」から「被災者」への情報提供・安全保障の際に問題となる,「それぞれの思いの相違」を考え”

て結びとする。

 

人は「縦軸の時間」を歩むと同時に,「横軸の時間」を廻っている。

ところが,また一年後も廻ってくるはずだった「時間」が,災害によって突如遮られてしまった。

続けていた仕事,伝統の神事・祭事,訪れるはずの場所,会うべき人,―。

 

一方,「縦軸」では淡々と時間が進み,研究者や政府,企業などは災害を分析し,防災・減災を考え,その実現に取り組み,やがてそれが良いところまでくると,「もうココは安全です」と人々に伝える。

でも,伝えられた人たちにとって,それは今までとは全く別の「ココ」であって,「横軸の時間」がまたすぐに廻り出す訳ではない。

 

図上で「縦軸」と「横軸」とを交錯させることは簡単であるが,実際の主観的な「時間」はそうはいかない。

止まってしまった水平方向の運動は,双方の思いの強さや変化,互いの粘り強い関わりあい,揺らぐことのない「縦軸の時間」の経過,などなど,どんな要素がどれくらい効くのかはわからないが,慎重に,丁寧に取り戻さなければならないのだ。

 

「二つの時間軸」という一見難解な話を通して,先生はこのようなことを伝えたかったのではないかと考えている。

 

あの日と同じ風

妄想

 

 マストになびく信号旗に憧れていた。

 ずっと昔の話になる。私は海沿いの小さな町に生まれた。そろそろと細く弱々しい黒煙を上げる工場が幾つかと,そこではたらく者たちの住まい,あとは漁で生計を立てる世帯がちらほらとあるだけの町だ。

 生まれ故郷の記憶はこれくらいだ。間もなくして,私は売りに出された。なに,悲しいことではない。それが私の生まれた意味であり,それだけが私の運命であった。

 引き取り先はすぐに現れた。海に近いことは同じであったが,こちらは大洋に面した,大きな港町であった。

 主人は船乗りをしていた。がっしりした身体に太い腕がたくましい,優しい心の男であった。彼はよく私を船に乗せ,長期の航海も何度か共にした。故郷でみた小さな漁船とは違い,乗り込む船はどれも大きかったが,外洋に出て行き違う船はまたそれのさらに何倍も大きいのに驚嘆したものだ。

 その船々の天辺,青空に突き出たマストに掲げられた色鮮やかな旗たちは,どれもが誇らしげに風になびいていた。信号旗と呼ばれるそれは、ひとつひとつが定められた意味をもつらしかった。それを記憶することは私の頭では叶わなかったが,私はただ旗を眺めるだけで十分であった。

 

 出会いがそうであるように,別れもまた唐突であった。

 長期航海の途中,停泊した港の堤防沿いを主人と散歩していたときだ。腰の高さ程の堤防の向こうに,小さな人影がみえた。この辺りは波消しの岩がずっと遠くまで並んでいるので,貝や磯蟹を捕まえるために堤防を越える者たちが少なくないのは確かであった。しかし,その人影は一向にその場所を動こうとせず,ずっとうずくまったままなのだ。不思議に思って駆け寄ってみると,そこには色白で華奢な少女が倒れていた。

 小さな手で押さえられた膝からは,少女の透明さには不釣り合いなほどにはっきりとした赤色の血が溢れ出ていた。

 主人の咄嗟の判断により,私は少女の応急処置をすることになった。彼女の膝からは勢い変わらず血が溢れ続けたが,私はそれを必死に抑えようと努力した。

 程なくして主人と助けの大人たちが現れると,少女と私は病院に運ばれた。傷は即座に縫われ,怪我を見た衝撃で朦朧としていた彼女の意識もすぐに回復した。両親に連れられて,彼女はその日のうちに退院できた。そして,私もまた,少女に連れられ病院を後にした。

 

 「助けてくれてありがとう」

 次の主人となった少女は,初めこそ私にこう語りかけ私を大事にしたが,やがてすぐに扱いは変わった。私はいつも彼女に振り回され,幾度となく傷つけられ,汚された。だが,それはまた,私はいつも彼女と一緒であったことを意味した。彼女もまた前の主人と同様,優しい心の持ち主であった。

 彼女の両親もまた,優しかった。母は,私が傷つけばすぐになおし,汚れればすぐに洗ってくれた。父は,主人と私をいろいろなところに連れて行ってくれた。大きな公園や動物園,そして,主人と出会ったあの堤防。

 「もうお父さんとお母さんから離れたら駄目だぞ」

 「わかってるって。お父さん,お母さん,貝集め競争しよう」

 両親のすぐ隣で嬉々として貝を探す彼女の首元で,私は陽の光る彼女の汗を受け止め,彼女の手や貝殻の汚れを引き受け,3人と幸せを共にした。

 

 母によって丁寧に洗われ,軒下で心地よい風になびいていると,塀の向こうから主人の声が聞こえてきた。どうやら友人と鬼ごっこをしているようだ。

 鉄筋コンクリート造の大きな建物が乱立したこの町で,主人の家と隣の小さな神社だけが,時間の流れに取り残されたようだった。高層マンションにも目は奪われるが,木造の古くて温かみのあるこの家が私は気に入っている。隣の神社の姿もまた歴史を感じさせるものである。境内は公園によくある砂場程の広さで、子供達が走り回るには少し狭いようだが、そのこじんまりしたところもまた良いのだ。

 故郷の小さな工場から,遠回りをして随分と離れたところに来たものだ。それでも,出荷前にほんの一寸感じた潮風も,外洋で旗をなびかせる強風も,軒下で私を心地よくさせるこの風も,何も違うところはない。

 「風に乗って世界をみるのが私の今の夢さ」

 年老いた私よりもずっと前からあった神社の御神木が,風に緑葉を鳴らしながらそんなことを言っていた。

 「役目を終えて,塵になったら空に舞って,そしたらずっと」

  私の役目はおそらくここで終わるだろう。そしたらまた,巡り合えるのだ。それは,どの船になびく旗よりも自由だろう。

 「お母さん,喉渇いた!お水と―,お気に入りのアレちょうだい!」

 「はーい。もう乾いたかしらねぇ」

 母の柔らかな手が私に触れる。物干し竿から母の手へ,そして主人の首元へとわたった。役目を全うすることだ。それが私の運命なのだから。

 

生存の道は一つ

回想

 

結婚式とは,煌びやかで絢爛で眩しく,幸せに満ち溢れたものだった。

この類のモノへの抗体をもたない私にとって,それは目を瞑ってしまうしまうほどに神々しく,いささかおぞましくさえ思えて,汗の滲む類の夢のように浮世離れしたものであった。

 

1年前の話になるが,かつての同級生の結婚式に出席させていただいた。

新郎,新婦ともに中学時代の同期であり,私は新郎側の友人として招待されたのだった。

かつては少々やんちゃだった新郎は緊張からか始終動きがどうもぎこちなく,一方,となりの新婦は美しく落ち着いた様子で新郎に合わせるようにしている。

 

ふたりの誓いは温かく,微笑ましいものだった。

素晴らしい,理想のふたりではないか。

 

結婚から挙式まで間があり,既に子供も授かっていたということで,続く披露宴ではふたりの間に子供の姿もみることができた。

素晴らしい,理想の家庭ではないか。

 

理想に満ち溢れた一連の時間と空間の中,ただ一つだけ”非”理想的なものがあった。

それは,私の立ち位置の曖昧さである。

 

新郎は,中学3年生のときの同級生である。

彼はいわゆる「イケてるグループ」に属していて,我々の学級で「五人組」というイケてる集団を形成していたイケイケな男だった。

 

一方,私はこの学級の委員長を務めていた。

無論,イケていなかったので,五人組には入れてもらえなかった。よかった。

 

委員長という立場上,彼ら5人には少なからず手を焼いた記憶がある。

授業を妨害したり,合唱で歌わなかったり,軽いイジメがあったり,窓ガラスを割ったり―。

彼らの代わりに担任に謝罪に行ったこともあった。

彼らにも「迷惑をかけている」と思うところがあったのか,はたまた,あまりにもイケていない私を哀れに思ったのか,単純に面白がっているだけか,理由はどうあれ,私には彼らなりに結構優しくしてくれた。

 

修学旅行の準備の時間だ。

 

自由行動の班決めで,6人で一組を作らなければならないことがあった。

彼らは朝から晩まで5人なので,当然の問題が発生する。1人足りないのだ。

そこで,心優しい彼らは,なんと,イケていない私を班に入れてくれた。

友達の少ない私は「ここの班に○○(私の名)君も入れてあげてくれない?」と担任と一緒に彷徨うことを恐れていたので,入れてくれたときはうれしかった記憶があるような無いような。

 

「これからは6人組だぜ」

 

何時か何処かの戦隊ヒーローが番組中盤に現れる新たな仲間を歓迎するかのようなノリで,5人が舞い上がって小躍りしているのを,私は目をパチクリさせて眺めていた。

 

高校,大学へと進学して,成人式で久々に再会したときも,彼らは私を歓迎してくれた(,と思っておく。もしかしたら,仲間に入れたフリをして,喜んでいるような戸惑っているような私の反応を楽しんでいるだけかもしれない―)。

 

そして,結婚式。

 

新郎側の中学時代の友人として招待されていたのは「6人組」だけだった。

新婦側で同期の女子がそれなりの人数呼ばれていたのもあっただろうが,この人数配分には少し驚いた。

彼の部活の同期とか,隣のクラスのあいつとか,私よりももっとイケてる奴がいたのでは?

とかく,このトリッキーな采配が,私を生死の淵に誘うことになる。

 

「5人組」は,気さくに良く私に話しかけてくれた。

披露宴のテーブルも,新郎を除く5人で一緒だったから,命の危険はなかった。

それでも私の反応がぎこちないのは,まあ,仕方ない。少し怯えていたから。

 

問題は,新婦側の同期達の存在であった。

中学の同期だけで集まった三次会のときだ。

 

正面に座った女性が,私を物珍しい目で見つめていた。

かつても存在を知っている程度で,それほど仲の良いほうではなかった人だ。

ちなみに,新婦の方も新郎に見合うくらいイケていたので,彼女の友人達も当然,イケている。

 

「○○君―,だよね?」

「あ,うん。△△さんだよね,お久しぶりです」

「うん。久しぶり。あの,さ―,■■(新郎)と仲良かったんだね。なんか意外」

「あ,ああ,まあね」

 

銃弾が軽く私の頬を掠めた。何という早撃ちだ。構えが見えなかったぞ。

そんなこと聞いちゃうんだね。しかも,言葉にはかなり含みのあるようだった。

思えば,笑顔の裏の殺意はむき出しじゃないか。単身突入はあまりにも危険だった。でも,もう逃げられない―。

以降は,彼女の言葉と併せて,()内に私が感じた彼女の心の声を記そう。

 

「へぇー,仲良かったんだ(え,なんでここにいるの?誰こいつ?って思ったわ)」

「まあ,3年のとき,クラスが一緒だったし,委員長をやってたよしみもあるしね」

「ふーん。そうなんだ(君,友達いたんだ―)」

 

銃をもつ私の右腕を無表情で撃ち抜いた。私の銃は,百均で買った水鉄砲だったのに!

もう,反撃のすべはない。

 

「え,他に今でも仲良くしてる友達いるの?(5人組とは馴染んでない感ありまくりだよ?うける)」

「あ,うん。5人の他では(と,一応言っておいた。私は大人だから)―,◎◎(本当に親しい友人の名)かな。結構な頻度で会ってるよ」

 

彼女の目の輝きが変わった。

完全に獲物を仕留めるときの目だ。

 

「え,◎◎君!◎◎君に久々に会いたい!(お前じゃなくて)」

「え,◎◎君と仲良いんだ!懐かしいな,私も会いたい!(お前とじゃなくてな)」

 

援軍が現れてしまった。気づいたら敵に囲まれてるじゃないか。みんなが私を嘲笑っている。

頼みの綱の5人組は―,何故にあっちのテーブル?謀られたか。

 

「ふーん,◎◎君ね―(ホントに友達?友達いんの?ウソでしょ?)」

「意外だわ―(友達いること自体がな!)」

「ハハハハハハ―(顔気持ち悪―い)」

「ハハハハハハ―(帰れよ,いつまでついてくるんだ,って新郎も思ってるよ)」

「ハハハハハハ―(てか,こいつから出席の返事が届いただけでみんな爆笑っしょ!)」

 

腕も脚も腹も胸も撃たれた。ハチの巣状態,満身創痍だ。

無抵抗の人間になんということをしてくれるのだ。

 

それ以降のことはよく覚えていない。

辛すぎて,防衛反応から記憶が消去されているのかもしれない。

 

この瀕死の状態から私を救ったのは,皮肉にもアノ場所で私よりも人気のあった◎◎だ。

彼と会った折,この出来事が辛すぎて自分では抱え続けることができず,話してみたのだ。

 

「ハッハッハ―。それ,めちゃめちゃ面白いな。お前,よく生きていられるな」

 

あ―,よかった。

この残酷な状態も,笑ってくれる人がいるから,ネタになって,辛うじて生きていられるのだ。

「可哀そう」とか「切ない」とか,慈悲の言葉などいらないのだ。

聖職者か僧侶か何かのつもりだろか。でも,それは私にとって完全なる悪魔だ。

 

そうだ,みんな,この哀れな私をもっと笑ってくれ。

それだけが,私が生き長らえる道だ。

笑ってもらえないと,私のこの戦いが,報われないのだから。

 

もう一度,あなたの舞を

回想

 

年末年始を実家で過ごした。

 

二人の弟は,偶然にも私と同じ町に進学してきたから,時々こちらで会うこともあるのだけれど,両親,そして父方の祖母とはお盆に帰省したとき以来の再会だった。

家に着き,居間の戸を開けると,そこには祖母の姿があった。座椅子にちょこんと腰かける彼女は,夏に会ったときよりもまた少し小さくなった気がした。

でも,彼女の優しさと気遣いは底なしに大きく,何とも懐かしく,一向に愛おしく,そして些か不思議な感じがしたのであった。

 

そうか,もう一年以上も前のことになる。

2015年の春だったか夏だったか。

90歳を過ぎたその祖母が,階段で転んで骨折し,救急車で運ばれた。

一人で買い物にいった先の市場での事故だったらしい。

怪我が少々複雑だったことと,年を重ねて治癒力が衰えてきていたことなどが原因だろうか,祖母はそのまま長期の入院を余儀なくされた。

 

それからの彼女の生活や治療のことを,私はよく知らない。

 

私自身,両親と頻繁に連絡をとる方ではないことが一因だろうが,何より,あの元気で力強く誇り高い祖母を,骨折程度で心配してはいけない,と自分自身思っていたところがある。

いや,もしかしたらそう言い聞かせていただけだったのかもしれない。本当は,この上なく心配していて,状況を知るのが怖かったのかもしれない。

 

とにかく,事故後に祖母と対面したのは,事故から暫く経ったその年の冬のことだった。

怪我の治療自体は終わっていたらしい。病院の本棟から少し離れた「リハビリ棟」と呼ばれる古い建物の中で,祖母は生活していた。自宅での生活に戻るための準備をするためだ。

 

リバビリ棟で、家族が久々に集まった。

黄ばんだ壁にヒビ割れた床。古くて暗い建物だ。

テレビや本などは無く、祖母の他に2人の老婆がベッドに横たわっているだけだった。

 

「ばあちゃん、久しぶり」

「久しぶり」

「ども」

 

兄弟3人でどこか気恥ずかしく声を掛ける。

 

弱弱しく頭をあげ、我々3人の顔を見たのか見ないのか。私に向かってこう言った。

 

「あら、〇〇(私の父の名)、来てくれたか」

 

突然のことに私が言葉を見つけられないでいると、父が代わりに答えた。

 

「〇〇はこっちだ。△△(私の名前)と□□(次男)と■■(三男)が帰って来たんだぞ」

「あら、そうなの。大っきくなったね。わざわざありがとうね」

 

よそよそしい言葉だった。

遠い親戚の子と話しているような、そんな感じだった。

 

(こんな状態なのか―)

 

言葉にできない感情が瞬く間に脳内に広がったのを記憶している。

 

我々兄弟3人からのお土産を渡しながら、「これは何処のお菓子だ」「それは何処のお茶だ」などとしばらく土産話をしていると、三男に向かって突然祖母が口を開いた。

 

「あら、おたくはどちらさん?」

 

ショックだっただろう。隣でそれをきいた私ですらショックだった。でも、当然三男も祖母がどういう状態にあるのかは理解していただろう。

 

「■■だよ」

「え?どちらさん?」

「■■です」

「え?」

 

「あなたの孫だよ」

 

見かねて父がフォローに入る。

祖母はしっくりきていない様子だったが,部屋に間に流れる気まずい空気に耐え兼ねた父の掛け声で,その後すぐに病室を後にした。

 

帰りの車内は父と母が「今日の晩飯、何にする?」などと時たま口を開くだけで、重い静寂が続いていた。

 

「今度のお盆に帰ってくるときは,3人とも,それぞれスーツを持ってきてくれ。6人でそろって,家族写真を撮ろう」

 

父が我々に向かって言った。

その真意は即座にわかったが,ぼんやりとした頭の中で,私は父の言葉をただずっと噛み続けるだけで,暫く飲み込めないでいた。

 

そして,夏。

 

祖母は既に退院していた。

帰省のたびにいつも,変わりのないことに安堵していた実家が,そのときは少し変わっていた。

祖母の部屋は父や叔母の手によって片付けられ,大きなベッドや座椅子が存在感を放っていた。

廊下や階段にも今までになかった手すりが取り付けられ,真新しい木材の明るい色が違和感を駆り立てた。

 

「おう,お帰り。3人とも,よく来たな」

 

座椅子に腰かけていた祖母は,我々の姿をみつけるとひょいと立ち上がり,にこやかにそういった。

 

「ただいま」

 

そこには,入院前と変わらない,元気な祖母があった。

懐かしかった。嬉しかった。そして,驚いた。

 

家族写真は撮らなかった。

「『何に使うつもりだ。私は嫌だ』と,ばあちゃんに断られたんだ」と,少し寂しそうに,でも嬉しそうに笑いながら,父が撮影を断念した訳を説明してくれた。

強くて少し頑固な,祖母らしい反応だと思った。

 

祖母は強くて,優しい人だ。

 

我々兄弟3人は,何故か,自転車を祖母に教わった。

3人の中でも私は一番飲み込みが悪く,転ぶたびに「ばあちゃんのせいだ」と泣きわめき,八つ当たりして,彼女を困らせていたらしい。

 

祖母とは,町内を何度も散歩した。

「新幹線,見に行くか?」

その声に我々は目を輝かせ,近くの線路まで連れられては,行き交う新幹線をじっと眺めていた。

「公園行くか?」

その声に我々は心を躍らせ,近所のブランコと滑り台だけがある小さな公園に行っては,日が暮れるまで遊んでいた。

 

祖母はずっと,日本舞踊をやっていた。

近くの公民館で週に1,2度の練習があったようだ。

小学生の頃には一度,発表会を見に行ったこともあった。

綺麗に化粧をして,華やかな着物を着て,美しい扇子を片手に舞う姿は,普段の祖母とはまた違って,しなやかで柔らかかったことを覚えている。

昔は芸名をもって踊っていたこともあったらしいというから,腕前もなかなかのものだったのかもしれない。

私が中学生の頃に,人間関係のトラブルとかでキッパリやめてしまったのだけど,そのあとも暫くは,家で曲を流しては,扇子を片手に踊っている姿をみた。

 

ずっと続いていた趣味を無くしても,祖母は元気だった。

「戦争中は,『横に進むものはカニでも許すな』って言われててねぇ。英語なんて全く教えて貰えたかったから」

我々が学校で英語を教わり始めると,「私にもアルファベットを教えてちょうだい」と,AからZまで,繰り返し,何度も書いて,楽しそうに勉強していた。

 

祖母はずっと,刺激を求めて生きていたのだ。

体を動かすこと,頭を使うこと。彼女は新しいことを求め続けていた。

それが,入院をきっかけに,何処へも行けない,家族とも話せない,テレビも本も無い生活になったしまったのだ。

刺激を糧にしていた脳が,栄養不足になってしまった。

 

そのときは,不安で,哀しかった。

「もうずっと,このままなのではないか―」と心配だった。

 

でも,再び刺激に溢れた日常に戻ると,祖母はすぐにそれらを吸収してくれた。

 

医学に詳しい人にすれば,「そんなもの当然だ」というようなことなのかもしれないが,素人の私にとってはそれがとても不思議で,驚くべきことで,そして,神秘的なものだったのだ。

 

”これからも”,”いつまでも”というのは,非現実的なことだろう。

でも,少しでも多くの刺激を感じて,生きてほしいと思うのだ。

 

「脚が治った」とはいっても,身体は着実に衰えているようで,もう激しい運動は難しいのかもしれない。

でも,刺激に神秘的な力があるのなら,「もう一度,祖母の踊りを,美しい舞を見せてくれないか」と,今になって願うのだ。