ライ麦畑で叫ばせて

日常・回想・妄想・数学理科・社会・思考の道草 を軸に書きます。

おだやかな青

 

 一日に何度、青信号の点滅をみるだろう。

 彼奴はあと少し、というところでチカチカとして、途端に切迫感を漂わせる。横断しようとすると決まって点滅し出すんだ、などと悲観的になってみるが、そう感じるのはある意味当然で、青のままの信号を意識しそれに感謝するような精神的豊かさを、残念ながら私はもち合わせていない。

 電車を降りて職場に向かう道中に一つ、信号がある。片側二車線の十字路に設けられた横断歩道に付随する、ごく一般的な信号だ。

 その道は見通しがよく、信号は五十メートル以上も前から目に入る。そして、何十メートルも前からそれが青色であることは、すなわちそのまま歩いていては信号待ちをしなければならないことを意味する。

 遠目に青をみたときの反応は各人各様だ。

 青のうちに渡ってしまおうと速い速度で走り出す者、小走りで赤信号の寸前に横断歩道に辿り着く者、歩みを早めることはせず次の青を見据える者。

 走る者の中には、それが計算に入っている人がいるようだ。ここで走らなければ、なにかに間に合わない、という人たちだ。一方で、ただ漠然とした焦燥感に駆られて走り出すものもあろう。さして時間に追われている訳でもないのに急いでしまう、一定数の人間が抱えた疾患だ。

 走らぬ者の中にもまた、そこに算段のあるもの、すなわちゆとりのあるプランのもとに行動している人がいて、その一方で、計画云々なしに、手元の電子機器に夢中の者も見受けられる。

 さて、信号の青、あるいはその点滅に対する各々の反応を事細かに観察する私はというと、その信号に向かって走るでも歩くでもないのである。

 最終目的地の違いさえあれ、横断歩道へと軌を一にするのがこの辺りの本流である。一方で、その道から分岐した歩道を行く者たちが少なからず存在する。そしてその内の一人が、何を隠そう私である。

 逸れた細道には最近よく綿毛が舞っている。綿毛といって思い浮かぶ黄色く小さな花は見当たらず、そこには細長く綿をたくわえた草が茂っている。調べてみるとどうやらチガヤという植物らしい。その生命力たるや、街路樹の根元の土からアスファルトへと進出し、我が物顔でそこにのさばるほどである。

 対して、車道を挟んでみえる中央分離帯は皮肉めいてよく整っている。切り揃えられた芝生の青はおだやかで、等間隔に並ぶ低木につく紅赤色の何かの花が良いアクセントになっている。

 そんな支流を少し行くと、中央分離帯の芝生が不自然に剥げた箇所が見えてくる。それはさながら獣道である。横断歩道のないところを渡る者たちが芝生を踏みつぶしてできた道だ。横断者たちの目的地を睨みつける獣のような鋭い目つきを見ると、それは本当に獣道と呼ぶにふさわしいと思えてくる。そして私も、恥ずかしながらその獣のうちのひとりなのだ。

 信号の点滅になど見向きもせずに通るべき道を逸脱する私のようなものたちが、実は何者でもない何かに追われ、最も殺気立った朝を迎えているのかもしれない。職場の座席に着いてしばらくの後、草木か信号かただ漫然とした青を左肩のチガヤの綿毛に見て、どういう訳かそう思うのであった。