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ライ麦畑で叫ばせて

日常・回想・妄想・数学理科・社会・思考の道草 を軸に書きます。特に「妄想」は別のところでしっかりカタチにするのが目標です。

美しさは崩れる運命にある

 

2008年にノーベル物理学賞を受賞した南部陽一郎氏は,授賞理由でもある「自発的対称性の破れ」というものを,「倒れる鉛筆」をみてひらめいたという。

 

私のゴミ屑ほどの知識で「自発的対称性の破れ」を説明すると,以下のようになる。

これまで多くの物理学者たちが,「この世の全てをひとつの式で表す」という大きな野望を抱き,その答えたる「神の数式」を探し続けてきた。

イギリスの物理学者ポール・ディラックは,当時主流だった「観測事実を数式に置き換える」という論理的な手法ではなく,「神の扱う数式は美しいに違いない」という極めて斬新な信念をもとに,素粒子(電子やらクォークやら,万物の最も基本の粒子)を支配する数式を導き出す突破口を開いた。

そこから,素粒子の振る舞いに関する研究は「美しさ」を追及することにより発展していった。物理学における「美しさ」とは「対称性」があることらしい。回転・平行移動についての対称性といった解かり易いものから,時空の対称性や可変ゲージ対称性といったよく解からん対称性まで,あらゆる対称性を考慮して式は導き出されてきた。

ところが,「美しさ」を追及した末に人間が辿り着いた数式の結論は,「万物の質量はゼロ」という現実と矛盾したものであった。

この問題を解決するため,南部氏は「倒れる鉛筆」に注目した。「どんなに垂直やバランスに気を付けて自立させようとしても,尖らせた芯側を下にして鉛筆を立たせ続けることはできない」という事実に着想を得て,「美しさは崩れる運命にある」という「対称性の破れ」の項を式に加えることによって矛盾を解決したのだそうだ。

何とも無常観があって良い。その方が美しいと思うのは,日本人的思考なのだろうか。

後にその「崩し役」のヒッグス粒子の存在が指摘され,そのはたらきについての項を加えた,今のところの「神の数式」が出来上がっているようだ(間違いや説明不足が多数あると思われます。興味をもった方はご自身で調べてみてください)。

 

さて,前置きが長くなってしまった(ここまで前置きかよ,と辟易した皆さん,ご安心ください。結論は短いですから)。神の数式の無常観も実に素晴らしいのだが,私がここで言いたいのは「ひらめきは偶然ではない」ということだ。

 

南部氏は鉛筆が倒れる様子をみて対称性の破れの概念を考えついた。

ピタゴラスは床に敷かれたタイルをみて三平方の定理をひらめいたし,ニュートンはリンゴが木から落ちるのをみて万有引力の存在に気づいた。海洋学で有名なエクマンは海氷の流れる様子をみて風向きと海洋表層流の向きとの関係を導き出した。

こういった類の逸話の中には,後から歴史が捻じ曲げられて「美談」として今に伝わっているものも多いだろう。それがほとんどかもしれない。だが,そうはいっても,あるものを見たことを「きっかけ」にして何か考えがひらめくことは我々にも多分にある。

屋台の灯りをみて「ふむ,今日は焼きそばにしよう」と思ったり(低次欲求に生きている),月をみて「おや,言葉とは月のようだ」とひらめいたり(何言ってんだ,とお思いでしょう)。

ただ,そのひらめきが科学的に偉大であればあるほど,それはきっと,当事者が常にその事象について考え,悩み,頭の中が疑問ともどかしさに満ちているからこそ生まれるものだ。きっかけとは大きくも小さくも,その人の執念や意志,経験,思考の賜物なのだ。

 

何を考え初めても集中力が5分ともたない最近の私のような人間には,偉大なひらめきなどあるはずもない。早くも散り始めた桜をみて「ああ,美しさは崩れる運命にあるのだなあ。すっかり葉が混じってしまっている──散りばめられたノリのようだな,のりしおポテチが食いたい」と思う程度である。