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ライ麦畑で叫ばせて

日常・回想・妄想・数学理科・社会・思考の道草 を軸に書きます。特に「妄想」は別のところでしっかりカタチにするのが目標です。

閻魔が見てるそんな夜

 

2015年6月下旬,私は美しき街プラハにいた。

一週間ほどの滞在にもかかわらず私の用事は最終日だけであったので,それまでは緊張を押し殺すように,敢えて浮つき散らして,遊び散らかしていた。仕方なしに観光に狂っていた。本当である。緊張のし過ぎは良くないというのは皆さんもおわかりだろう。

 

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写真は夜のプラハ城である。

プラハは美しい。まさに中世ヨーロッパの街という感じの道,教会,城,施設,家々が立ち並ぶ素敵なところだった。しかも街はコンパクト。1日2日あれば十分観光が可能だった。そのため,滞在の後半は電車で少し遠出をして,美しい教会や人骨で埋め尽くされた刺激的な教会などを訪れたりもした。

また,チェコは一人当たりの年間ビール消費量が世界一とも言われている。首都プラハでも,本当に水よりビールが安かった。そして,美味しかった。城を眺めてビールを飲み,川のほとりでビールを飲み,麗しき金髪美女を視界にビールを飲んだ。

 

さて,そこでビールのつまみに食べた「ウトペネツ」という料理。言葉で説明するならば,ソーセージのピクルスである。味は,なんというか,ソーセージを酢漬けにした感じ。見た目は,皿に盛り付ければただのソーセージ,瓶の中で漬かっているときは──「水死体」である。

突然物騒な,と思われたかもしれないが,この「ウトペネツ」という名前,まさしく「水死体」という意味らしいのだ。ちなみに,その見た目から,私は水死体を連想することはできなかった。たぶん,緊張のせいだ。

 

当時,その事実を同行の日本人に教えられた私は,「食べ物に水死体と名付けるとは──」とその感覚に驚いたものだった。

この感覚は正しかったのだろうか。今になって突然疑問に思い,日本にもこんな物騒な名前のついた料理があるのか調べてみた。

結果,ご飯の粒が残るくらいに潰したおはぎ「半殺し」,生きたままの海産を煮たり焼いたりする「地獄○○」や「残酷○○」などは見つかったが,調理法に由来するものが多くて,見た目だけからくる「水死体」のインパクトには負ける。

 

はて,何か残酷な名の食べ物はあっただろうか。そう思って絞り出すことができたのは偶然立ち寄った室蘭で見かけた「毒まんじゅう」くらいだった。

 

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やはり,これも何か違う。

残酷な名前の食べ物を探すというのもおかしな話だが,これから意識して生活しようと思う。皆さんは何か例をご存知でしょうか?

 

最後にひとつ,

 ”暗黒屋台のオヤジ 毒饅頭でボロもうけ

  暗黒屋台のオヤジ 針の山で野垂れ死に”

これは私の好きなバンZAZEN BOYSの「暗黒屋」の歌詞である。狂っているところがとても良い。

歌も料理も何もかも,狂っていてもいいか。

 

美しさは崩れる運命にある

 

2008年にノーベル物理学賞を受賞した南部陽一郎氏は,授賞理由でもある「自発的対称性の破れ」というものを,「倒れる鉛筆」をみてひらめいたという。

 

私のゴミ屑ほどの知識で「自発的対称性の破れ」を説明すると,以下のようになる。

これまで多くの物理学者たちが,「この世の全てをひとつの式で表す」という大きな野望を抱き,その答えたる「神の数式」を探し続けてきた。

イギリスの物理学者ポール・ディラックは,当時主流だった「観測事実を数式に置き換える」という論理的な手法ではなく,「神の扱う数式は美しいに違いない」という極めて斬新な信念をもとに,素粒子(電子やらクォークやら,万物の最も基本の粒子)を支配する数式を導き出す突破口を開いた。

そこから,素粒子の振る舞いに関する研究は「美しさ」を追及することにより発展していった。物理学における「美しさ」とは「対称性」があることらしい。回転・平行移動についての対称性といった解かり易いものから,時空の対称性や可変ゲージ対称性といったよく解からん対称性まで,あらゆる対称性を考慮して式は導き出されてきた。

ところが,「美しさ」を追及した末に人間が辿り着いた数式の結論は,「万物の質量はゼロ」という現実と矛盾したものであった。

この問題を解決するため,南部氏は「倒れる鉛筆」に注目した。「どんなに垂直やバランスに気を付けて自立させようとしても,尖らせた芯側を下にして鉛筆を立たせ続けることはできない」という事実に着想を得て,「美しさは崩れる運命にある」という「対称性の破れ」の項を式に加えることによって矛盾を解決したのだそうだ。

何とも無常観があって良い。その方が美しいと思うのは,日本人的思考なのだろうか。

後にその「崩し役」のヒッグス粒子の存在が指摘され,そのはたらきについての項を加えた,今のところの「神の数式」が出来上がっているようだ(間違いや説明不足が多数あると思われます。興味をもった方はご自身で調べてみてください)。

 

さて,前置きが長くなってしまった(ここまで前置きかよ,と辟易した皆さん,ご安心ください。結論は短いですから)。神の数式の無常観も実に素晴らしいのだが,私がここで言いたいのは「ひらめきは偶然ではない」ということだ。

 

南部氏は鉛筆が倒れる様子をみて対称性の破れの概念を考えついた。

ピタゴラスは床に敷かれたタイルをみて三平方の定理をひらめいたし,ニュートンはリンゴが木から落ちるのをみて万有引力の存在に気づいた。海洋学で有名なエクマンは海氷の流れる様子をみて風向きと海洋表層流の向きとの関係を導き出した。

こういった類の逸話の中には,後から歴史が捻じ曲げられて「美談」として今に伝わっているものも多いだろう。それがほとんどかもしれない。だが,そうはいっても,あるものを見たことを「きっかけ」にして何か考えがひらめくことは我々にも多分にある。

屋台の灯りをみて「ふむ,今日は焼きそばにしよう」と思ったり(低次欲求に生きている),月をみて「おや,言葉とは月のようだ」とひらめいたり(何言ってんだ,とお思いでしょう)。

ただ,そのひらめきが科学的に偉大であればあるほど,それはきっと,当事者が常にその事象について考え,悩み,頭の中が疑問ともどかしさに満ちているからこそ生まれるものだ。きっかけとは大きくも小さくも,その人の執念や意志,経験,思考の賜物なのだ。

 

何を考え初めても集中力が5分ともたない最近の私のような人間には,偉大なひらめきなどあるはずもない。早くも散り始めた桜をみて「ああ,美しさは崩れる運命にあるのだなあ。すっかり葉が混じってしまっている──散りばめられたノリのようだな,のりしおポテチが食いたい」と思う程度である。

 

ここにある

 

最近,お勉強が楽しい。

必要に迫られて,今まで真面目に学んでこなかった生物やら経済やら歴史やら,諸々の科目と向き合う日々なのだが,これが思いのほか楽しい。これまでずっと1つのことに凝り固まって視野が狭くなっていたのだろう。人間の飽くなき知的探求心よ。

 

さて,実は先日,嬉しいことがあった。

昨年度の活動をまとめる書類を作成していたときだ。成果発表をしたいくつかの集会の詳細を調べなければならず,集会名を機械的に検索していた。すると,昨秋に行われた集会のホームページの下に,とあるブログが出てきた。「あの集会について書いた人がいるのかな」と興味をそそられ,何気なくページを開いてみた。

 

記事のタイトルはそのまま集会名。書いているのはその集会の場にいた方らしい(残念ながら私はその方を知らなかった)。内容はもちろん,その集会のことだ。

開催日(昨年11月某日)・場所(京都某所)などの情報から,企画概要,現場の雰囲気と話は進み,その後にはいよいよ発表に対する具体的な記述があった。

参加者は約40人,発表者は20人ほどの2日間にわたる集会だったのだが,その方は1日目,2日目それぞれ1つずつ企画をピックアップして記事を書いていたようだ。

そして,驚くべきことに,2日目の企画として取り上げられていたのが,私の発表だったのだ。

 

記事の内容をまとめさせていただくと,”○○さん(私の名前)という方のお話は,数式的な話がよくわからなくて途中からついていけなくなったが,具体的な話は面白かった。新たな気づきもあり,もっと詳しく話をききたかった” である。

発表が分かりづらかったのは大変申し訳ない。でも,そんなことより,名前も顔も初見であろう私のような者の発表について書いてくださったことが嬉しかった。しかも,私にコメントを見せるためではなく,自己完結的に,だ。

 

お勉強の途中に目にした「欲求5段階説」をふと思い出す。

アメリカの心理学者マズローは,「人間の欲求は『生理的欲求』,『安全欲求』,『社会的欲求』,『承認欲求』,『自己実現欲求』の5段階からなり,低階層のものが満たされるとより高次の欲求を欲する」と提唱した。

では,先の喜びはどの欲求が満たされたことによるものだろうか。

まず考えたのは承認欲求だ。しかし,「あの発表が認められたから嬉しかった」というのではない気がする。もっと根本的なものだ。

欲求の5段階にも下段3つと上段2つの間には少々隔たりがあり,下段3つは低次欲求と言われているらしい。そう,もっと低次。

記事を読んで,この記事を書いた方は確かに私ないし私の発表を認識してくださっている,と思えた。

自分の存在を社会に認識されたこと,自分が集団に属していると確認できたことが嬉しかったのだ。

これはおそらく,社会的欲求なのだろう。

 

欲求はこの後,高次のものになるだろうか。

なるのが良いのか,悪いのか。どうなのだろう。

さ,もっと勉強しよ。勉強すれば答えが出るかもしらん。

あれ,この「知りたい」欲求は,高次のものなのかな。

さ,勉強しよ。