ライ麦畑で叫ばせて

日常・回想・妄想・数学理科・社会・思考の道草 を軸に書きます。

渇き

 

「…生きることが難しいなどということは何も自慢になどなりはしないのだ。わたしたちが生の内にあらゆる困難を見出す能力は、ある意味ではわたしたちの生を人並みに容易にするために役立っている能力なのだ。なぜといって、この能力がなかったら、わたしたちにとっての生は、困難でも容易でもないつるつるした足がかりのない真空の球になってしまう。…」

 

 これは、三島由紀夫「愛の渇き」中盤の一文である。この作品は通勤帰宅の道中で読み進めていたのだが、どうも考えさせられる文章が多くて、往復一時間程の車内も苦にならなかった。むしろ集中しすぎて乗り過ごしてしまいそうになるほどだ。

 この作品は、これといった特別の人たちの生活を切り取った訳ではなく、かといって最後の最後まで何か重大な事件が起こるということもない。主役の女が半閉鎖的な家族のなかで、自らの渇きを潤すべく、ただひたすらに苦闘する過程がここには描かれている。愛を、幸福を掴むために、彼女はどんな苦しみも回避することなく、そして最後にはその獲得を完遂する。

 記事の初めに引用した文章が、この作品の根幹をなしているように私は思う。「現状に満足しているひとは発言の必要がない」という話は前にもしたが(幸福な言の葉 - ライ麦畑で叫ばせて)、それはすなわち、言語の使用をもって定義される我々人間が人間として生きるためには、何かしらの障壁とそれに対する抵抗が必要であるということだ。

 そしてその障壁は、三島氏が言うように、日々を生き辛いものにしているようであって、実は生きることを容易にしている。それなしには、我々の生というのは脈々と続く一連なりの一生物の歴史のある一点に過ぎない。

 例えば何もせず自宅のソファに腰かける休日の午後も、障壁というものなしには、抗い疲れて不貞腐れているのではなくて、ただの考え無しの無気力状態で片付いてしまう。「無」というのは果てしなく、実に恐ろしいものだ。小学生の頃、割り算の授業で「どんな数も絶対にゼロで割ってはいけません」と、頭ごなしに禁止されたのを思い出す。それは禁忌の部屋のようで、決して踏み入れてはいけない領域として、私はそれに漠然とした言いようのない恐れをおぼえていた。やがて時が過ぎ、高校で無限の概念を学び、ゼロで割ることの意味をようやくわかったのだったが、果ての無いものという意味で、その恐怖という感情は決して間違ったものではなかったのかもしれない。

 

 この作品を読むあいだ、私は感心と驚きとで満ち満ちていた。別段何も起こらないのに、巧みな描写と高尚な表現、そして作品の根底にある哲学の魅力に、自ずとページをめくるのが加速していった。そして最後には仰天し、諦念をもった。仰天は主人公の幸福追求の結末に対してであり、諦念は私自身が新たな文章を生み出すという行為に対してである。こんな良い文章を読まされたら、書く気力を失うのは当然だろうと思う。

 でも、これも生きるのを難しくする一障壁だとしたら? 何も抵抗がないということは、口を開く必要もなく、すなわち何かを書く必要もないということだ。

 私の全てを表現したい。私のその満たされない欲求は、果てしなき渇きは、私がひととして生きるための抵抗をもたらす要素の一つなのかもしれない。そう信じて、騙されて、渇きのなかに生きることもまた、私の生を得体の知れないものでなくする知恵であるのだろう。