ライ麦畑で叫ばせて

日常/数理/旅や触れた作品の留書/思考の道草 などについて書いています。

計算の奇妙な空想

 

 先日、食塩水の濃度云々の数学問題を解く機会があった。「濃度」の問題とくれば「しみずの表」を書くということが、私には刷り込まれている。しみずの表とは、し(塩)、みず(食塩水)、の(濃度)の3項目について、混合や変化の前後の値を埋めていったものであり、中学時代に通っていた塾の講師、清水野先生の名に由来する。

 どんな簡単な濃度問題でも、私はこの表を書くことにしている。慣れてくると表を書くのに手を動かすことが煩わしくなって、頭の中だけで計算してしまいがちなのだが、この慢心が命取りなのだ。紙に書かずして情報を脳内で完全に整理できる賢者は、人類でもほんの一握りの存在なのだ。この世界の9割を占める凡人が、天才たる彼らに少しでも近づき、確実に正答を出そうとするなら、手間を惜しまず、堅実に、しみずの表を書かねばならない。

 だが、どんな計算でも、数値や数式をただそれとして相手にしていると、いまいち味気ないし、何より意味が伴わないため、計算間違いの原因になる。問題を間違いなく解くためには、ある程度の想像力が必要と私は思う。上記の濃度問題でいえば、食塩水の量に分母の100(5%なら、5/100を掛けるだろう)が掛かった瞬間、「バイオハザード」で人体をいとも容易く細分化した格子状のレーザーで、ビーカーの中の水溶液が細切れにされるイメージが湧く。そのうちのいくつが、濃縮すると実は食塩なのかと想像するのだ。

 物理なんかは数学でただ数式を追っていくより場面が思い浮かびやすいが、その中でも電気回路はイメージしづらいのでは思う。私が回路の問題を解くときは、自分が電荷になって回路を走るイメージをする。抵抗は障害物で、電圧はそれを超えるためのブースト、電流は自分と一緒に走る仲間の電荷だ。コンデンサは崖というか谷というか。谷をジャンプで越えられる電荷がいるうちは電流が流れているが、崖の前でジャンプを躊躇う電荷でいっぱいになると、崖前でブーストを溜めた状態になって(帯電)、道が塞がり電流はもう流れない。

 積分。これは習った当初は理解に苦しんだが、あるときふと、レーザー光線が脳内を走った(レーザー好きだな)。線状に走るレーザーが積分範囲内をゆっくりと進んでいく。それが通過した場所はぼうっと色が変わってハイライトされ、順に数値が積算されて行くイメージだ。

 微分。これも高校当時数学で習ったときと今とではだいぶイメージが異なる。微分は勾配(シア)や変化率を求める作業だ。この計算に慣れてきた頃から、微分した方向に被微分量がどれだけどう変化するのか、色の濃淡や矢印がみえるようになってきた。力の動きが矢印でみえる、なんて古武術か怪しい拳法の達人のようなことを言っているが、あきれずに聞いてほしい。みえてきた濃淡や矢印に沿って手やペンを動かすと、物体(流体、光、なんでも良いが)の動きもイメージできてくる。

 こういうイマジネーションの熟練は、なにも数学や科学の問題に限ったことではない。聴いている音楽から情景が鮮明に描かれるとか、建物の構造を見ると配管の位置が手に取るようにわかるとか、脳内将棋盤に勝ち筋が見えるとか。大事なのは、何度でも立ち向かい考えてみることだと私は思う。

 最近気に入っている歌の一節を引用して、この記事の結びとする。

あまりにも 手遅れなことが

うんざりするほど

たくさんあるけど

(中略)

今夜 ダンスには間に合う

──思い出野郎Aチーム『ダンスに間に合う』

この歌の「ダンス」とは、愉快なことであり、義務であり、逃げてきた現実であり、出会いであり、仲直りであり、別れである。さまざまなものが手遅れであるように思えるけれども、計算も運動も試験勉強も人間関係も、実は遅すぎるということはないのかもしれない。疑わず、正しい方向に努力を続ければ、きっと奇妙な空想が、自らの期待するかたちで、私の「ダンス」の味方をしてくれるはずだ。