ライ麦畑で叫ばせて

日常/数理/旅や触れた作品の留書/思考の道草 などについて書いています。

コロナのせいにしてみるが、綺麗なものが怖いだけ

 

 会社の最寄駅から地上へと出る階段に、輪ゴムの束が落ちていた。二十個くらいがひと塊となり、その周りには二、三ずつの輪っかがちらほらと散らばっている。この量の輪ゴムがこんなところに落ちている事態に些かの疑問を抱きつつも、新品同様のそれを汚すのは忍びなく、私はそれを踏まないように避けて会社へと向かった。

 仕事を終えて帰り道にみた輪ゴムたちは、すっかり黒くなってしまっていた。人通りの多い階段に落ちていれば当然なのだが、朝からの変わりようには驚いた。前を行く女性二人は会話に夢中なようで、足元には目もくれず、それらを踏んで駅へと入っていった。

 次の日、仕事のことを考えながら会社に向かっていると、足に何かを踏んだ感覚があった。昨日の輪ゴムだった。薄汚れた階段にすっかり同化した輪ゴム。考え事をしていたとはいえ、私はそれを踏むことになんの躊躇いもなかった。落とし物はいつからゴミと化すのだろう。先ほどまでの考え事はどこへやら、そんなどうしようもない疑問が会社までの暇つぶしの種となった。

 先日、会社の先輩のお子さんと会う機会があった。二歳くらいの男の子で、目が大きく、蛍光灯の明かりを反射して輝く真ん丸な瞳が印象的だった。「会社連れて来ちゃったよ」諸事情によりお子さんを連れてきた先輩は、幸せそうに笑いながら言った。「可愛いですね。目が大っきい」素直な感想をぽつりと呟いたきり、私は話しかけるでもなく、父と子の時間を微笑んで眺めることしか出来なかった。

「近づかない方がいいような気がしてしまって。こんな時期ですし」お子さんが帰ったあと、改めて事情を説明してくれる先輩にいった。「心配ないよ、あいつ丈夫だし。あちこちで何か拾ったり触ったりするんだ。そういう意味じゃ、あいつがうつす可能性はあるかもしれないけど」腰が引けている私に、先輩は気さくに返事した。

 私が無症状でウィルスに感染していないとも限らない。小さなお子さんにそれをうつしてしまってはいけない、というのは本心だった。ましてや、奥様のお腹には二人目の赤ちゃんがいるというのだから、先輩と話すときすら細心の注意が必要だ。

 だが、近寄り難かったのは「こんなご時世だから」という理由だけだったか、と問われれば、自信を持って首肯することはできない。「あいつ、どんぐりに噛みついたり、泥水飲んだりしてるよ」なんて話をきいても、彼の綺麗さは明白なのだ。彼の黒い瞳が、甲高い笑い声が、手に持ったバイキンマンのペロペロチョコが、それを主張してやまないのだ。その綺麗さが、私は怖かった。絶対に汚してはならないと思ったのだ。

 この記事を書いている矢先、友人が「自分は(私たちにとって)邪魔者的な存在だったのでは」などと急に暗黒めいたことを言い出したのだが、ひょっとしたら、これと似た感情が彼にも少しあったのではないだろうか。我々には綺麗なつもりなど毛頭ないが、彼が仕事の忙しさに踏みつけられて汚れたせいで、相対的に我々が近寄りがたいものに見えてしまっているのかもしれない。

 どうせ汚れたもの同士なのだから、さっさと立ち直って仲良くしてほしい。綺麗なものは怖いので自分がなる気は一切ないが、一緒になってなにかすれば、汚いなりに洗われることだってあるだろう。