ライ麦畑で叫ばせて

日常/数理/旅や触れた作品の留書/思考の道草 などについて書いています。

人ばかりの消えるまち

 

 年末年始を実家で過ごした。食って、飲んで、寝る。それだけ数日も続けていると、最近の運動でせっかく引き締まってきた腹がたちまち膨らんでしまった。さすがに身体が心配になって、少し近所を散歩してみることにした。

 小雪舞う中を一時間ほど歩くあいだに、いくつか感じたことがある。まずは、小ささ。昔は大きくて頼り甲斐のある気がしていたガードレールも、今となっては軽々とまたぐことのできる高さで、どうも心もとない。そして、川。こんなにか細かっただろうか。幼少期に走り回っていた河原の公園も、もっと広大に思っていた。雪だるま。この年末年始は雪が非常に少なかった。それをそこらじゅうからかき集めてきて作ったのだろう。それはいびつな形ですでに崩れかけていて、物悲しさをおびていた。

 数日前、老人ホームに滞在しきりの祖母に会いに行った。車椅子から立つこともない彼女は、ここ一年でずっと小さくなった気がした。昨年までは自宅で酒を酌み交わしていたのに。今では我々訪問者が誰なのかすら、よくわかっていないのだ。

 見慣れなさ。私が実家にいた当時は新築だった家やマンションは、今や人が住んでいるかどうかも疑わしいほど傷んで古ぼけてみえた。かと思えばそのすぐ隣に、私の知らない家が建ち、豪華な電飾で彩られていたり、立派なしめ飾りが飾られていたりする。新しいものもやがては古くなり、また新しいものができる。白い息を吐きながら、そんな当たり前のことを考えてみる。

 十分歩き、二十分歩いても、一向に歩行者とすれ違うことはない。行き合うのはスリップを警戒した車ばかりで、ようやく見かけた犬の散歩をする老夫が妙にありがたく思えた。人の少なさ。そして、車の多さ。車の数と人の数が合っていないのではないか、と余計な心配をしてしまうほどに、車だけが私を追い越していった。

 元日に会った情報通の親戚は、裏の誰それがこの前亡くなった、親戚の誰それも亡くなった、あそこの角の誰それさんも亡くなった、と訃報ばかりを語った。その次には、家は取り壊されて駐車場になるそうだ、と言った。散歩してみると確かにそうだ。この辺りには駐車場が増えた。一軒家とコンビニと居酒屋チェーン店が少しだけ増え、駐車場がとても増えた。

 人よりも車が多く感じるこのまちだ。ひとばかりが消えてしまったって、みんな駐車場になるだけだろう。これが内在する皮肉矛盾に気づいていないわけではないが、所詮ファンタジーだと高をくくってしまっている。そう楽観的でいられるのは、私が故郷から離れてしまったからかもしれない。愛おしさ。できれば、少し近づきたいかな。駐車場ばかりのまちだが、ここから人が消え去るのは悲しいことである。